Act.19 踏み出し始めた境界線
ゴールデンウィークは過ぎ去り、私はまた哀牙探偵事務所のメイドとしてメイド服を着ていた。休暇中の私服だった頃が懐かしい。
帰省した時、家族に何の仕事をしているか聞かれて少し焦った。とりあえず「事務仕事をしている」とだけ答えたけど、間違いではないよね。猿西家での依頼中は一時本物のメイドになったし、探偵の助手として活躍も出来たし……あ、そうだ。
棚を拭いていた濡れ布巾を持つ手を止め、デスクで書類を眺めている哀牙さんに声を掛ける。
「哀牙さん、お願いがあるんですけど」
「オヤ、何でしょうかな?」
「私に護身術を教えて下さい」
「……なにゆえかな?」
理由は猿西家での事件だった。
あの時、犯人は私を狙った。それはきっと、私が一番近くに居た"女"だからだ。もし私に相手をねじ伏せる力があればもう少し上手に取り押さえることが出来たかもしれない。それにもし護身術を身に着けていれば、いざという時に自分の身も守れる。
胸中を明かすと、哀牙さんは書類を置いて立ち上がり、後ろ手を組みながら歩み寄ってきた。
「その心意気、実に天晴ですぞ。しかし、我としては防御術を要する場面に貴女が陥ること自体、紳士として己自身を許しがたい」
「う、そうですよね……。でもお願いします、一つだけでも!」
これから先も探偵事務所で働く身として、なるべく哀牙さんの足を引っ張りたくない。勢い付けて深々と頭を下げると、哀牙さんの咳払いが聞こえてきたのでパッと姿勢を戻す。
「宜しい! 貴女のやる気に免じ、我が護身術を一つ伝授致しましょう、手取り足取りッ!」
「て、手取り足取り……」
「そう身構えずとも、簡単なことです。まずは力を抜いて下され。変質者とは如何なる時も無防備なレディを狙うもの」
私が意識しているのはそっちではない。護身術を教えるとなれば、手も足も触れるのが当たり前だ。どうして先にそれを考えられなかったのだろうか。しかし哀牙さんはすでに教える気満々で、両手を広げながらこちらに伸ばしてくる。
「まずは……」
哀牙さんが私に一歩踏み出したのに合わせて私も一歩後ずさる。哀牙さんは気を取り直し、もう一歩踏み出す。合わせて私も一歩後ずさる。一歩踏み出す。一歩後ずさる。
「……名前殿?」
「す、すみません、体が勝手に」
私を捕まえようと手を伸ばしてくる哀牙さんがとても怪しくて、本当の不審者みたいでつい逃げてしまう。すると、紳士たるもの無理強いをさせてはいけませぬな、と哀牙さんは手を下ろして背を向けた。せっかく哀牙さんが真剣に教えようとしてくれたのに、私はなんて邪な事を考えた上に失礼な真似をしてしまったのだろうか。申し訳なく思ってその背中に近付き、恐る恐る謝罪する。
「ごめんなさい哀牙さん、私――」
「スキありですぞ、名前殿! 不審者とは不意をついて……」
「ひゃああああっ!!」
「ふぐおおっ!?」
突如哀牙さんが振り向き、私にぐあっと手を伸ばした。咄嗟に反応して突き出した腕は、哀牙さんの勢い付いた手に押され、バランスを崩して背中から床へ倒れ込んだ――襲ってきた本人と一緒に。
ドサッという音と背中に伝わる衝撃に目を閉じるが痛みはあまりない。ゆっくりと目を開くと哀牙さんが私を抱き締めるようにして守ってくれていた。
「あ、哀牙さん! ありがとうございます!」
「いえ、名前殿がご無事で何よりですぞ」
哀牙さんは私の頭と背中に回していた腕を外し、上体を起こそうとして、急にピタリと動きを止めた。私の背中は床に面したままで、側面は哀牙さんの腕がまるで檻のようになっている。まさに文字通り、彼に閉じ込められている状態だ。かつて無い緊張感の走る状況に、自分の胸の鼓動が次第に早くなっていくのがわかった。
哀牙さんは何も言わないまま動かず、ただジッと私を見下ろしてくる。真意が掴めない彼の瞳はどこか切なさと憂いを帯びていて、その熱視線に魅入られた私は言葉を失った。彼は今、何を考えているのだろうか。何一つとして思考が働かない。
ああ、痛いくらいに響く胸の鼓動が、非常に耳障りだ。
「あ、哀牙さん……?」
「……名前殿……」
もしかしたら時が止まったのかもしれないと思って哀牙さんを呼んでみると、やはりそんなことはなかったようで、彼の唇は私の名前の形に動いた。呼び合ったのが合図とでもいうように、哀牙さんは白い手袋を着けた右手をそっと私の頬に添える。肌触りの良い布地の感触に体がピクッと震え、言い様のない甘やかな雰囲気に絆されそうになる。
哀牙さんは何かを覚悟したかのように眉宇を引き締めると、徐々に私へ顔を近付けて――きた瞬間、コンコンという軽快なノックの後に続き、ガチャリとドアを開けて一人の女性が事務所へやってきた。
「すみませーん! いらっしゃいますかー?」
「ひわあああああっ!?」
「ふむグハらアぁッ!?」
信じられないタイミングの来客に悲鳴を上げながら哀牙さんを思いっきり突き飛ばすと、そのまま後頭部をテーブルにぶつけてしまったらしく叫び声を上げた。対する私は心臓が爆発しそうになりながら慌てて体を起こすと、死角にあったデスクの下に額を強くぶつけて頭を押さえながら身悶えた。
哀牙探偵事務所に、二人の痛ましい呻き声がしばらく響き続けたのだった。
***
「……マズイ時に来ちゃいましたかね?」
「いいえ、大丈夫です語居さん!」
来客用テーブルを挟んでソファに座る彼女――語居 貝霧(ごい かいむ)さんに紅茶を出す。彼女は猿西家のメイドでありながら、小説家として筆を執っている。
語居さんはカップを手にし、まさか漫画みたいなタイミングで邪魔しちゃうとはねーなんてケタケタと笑った。いいえ、むしろとても良い時に来てくれたと思います。あのままではどうなるかわからなかったもの。色んな意味で助かった。さっきの哀牙さんは少し怖くて、でも不思議とドキドキして……いつもと、どこか違った。思い出そうとするととてつもない恥ずかしさがこみ上げてきてみるみる内に顔が熱くなり、それ以上の回想は妨げられた。
「名前殿もどうぞ、お座り下され」
「わ、私は大丈夫です。それより語居さんのご用件をお先に伺いましょう」
哀牙さんが自分の隣を手で示すが、それをやんわりと断って立ったままでいる事にした。何となく今は、哀牙さんの近くに居るのが怖い。語居さんが居るんだから変な心配は無用だろうに、それでも今は彼に近寄りがたさを感じていた。
しかし哀牙さんは特に気にした様子はなく、語居さんへ向き直って話を進めた。
「して、語居殿。どういった依頼ですかな?」
「依頼ってほどの事じゃないんですけど……実は、以前お二人が解決した"猿西家事件簿"を小説の題材にしたくてお願いに来ました!」
……え、"猿西家事件簿"?
なんか大仰な名前が付いちゃってるけど、そんなにすごいモノだったっけ。
「次の新作で、名探偵と名メイドの名コンビによる名ミステリーシリーズを書きたいんです! 二人の名推理によって次々と明らかになる殺人事件。その足がけとして、まずは先日起こった"猿西家事件簿"について話を伺いたいと思いまして!」
興奮を押さえきれない様子で捲し立てながら、バッグから手帳と万年筆を取り出す語居さん。名探偵と名メイドのモデルは言わずもがな、哀牙さんと私のようだ。
「クックック、この哀牙の名推理にあてられ、創作意欲を刺激されたというわけですな! 実に面白そうだ! 良いでしょう!」
「やったあ! ありがとうございます!」
哀牙さんはやぶさかではない様子で快諾した。自分に焦点が当たるのが嬉しいのだろう。哀牙さん、結構目立ちたがり屋だし。
語居さんは私にもメイドとして登場させて良いかと尋ねてきたので、哀牙さんが良いなら私も特に構わないと答えた。でもまさか、自分が小説の登場人物になるなんて思いもしなかった。あくまでモデルだから周りにバレる事も無いだろうし、問題ないよね。
語居さんと哀牙さんは握手を交わし、今度はまるでインタビューを受ける有名人とその記者のようにどんどん話を進めていった。手持ち無沙汰になった私は、空になったティーカップを下げておかわりを淹れることにした。
給湯室に一人籠もり、お湯を沸かす所から始める。なるべく時間を掛けて、この間に頭を冷やすことにしよう。
紅茶を淹れて事務所へ戻ると二人はまだ熱く語り合っていた。どうやら登場人物の設定は大分決まったみたいで、今度は調査中にどんなことをしたか、探偵としてどう立ち回ったかを、哀牙さんは誇張気味に説明していた。語居さんはその話に熱心に耳を傾けながら手帳に筆を走らせる。会話の端々から、二人が意気投合しているのがよくわかった。
哀牙さんがこんな風に誰かと笑い合う姿を見たのは初めてだった。彼はいつも自分の立場を忘れることはなく、探偵と依頼人、上司と部下という一定の距離感を必ず保ち続けていた。それが今はどうだろうか、自身の立場も忘れて雄弁に語り、語居さんに気を許している。
どこか物寂しさを感じると同時に、胸の端っこがチリリと焦げついた。
(何だろう、"コレ")
おかわりを差し出して、また立ち尽くすでもなく静かに哀牙さんの隣に腰を下ろす。自分以外の重みで沈むソファに気付いた哀牙さんは一瞬言葉が止まり、隣に座る私にちらりと視線を移して安心したような笑みを浮かべる。そして止まった口を再び動かし始めた。
私は彼の隣で体を強張らせたまま、制御のできない熱がじわじわとこみ上げてくるのを、なすがまま受け入れる事しか出来なかった。
(20170622)
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Smotherd mate