Act.4 ご主人様とお嬢様
探偵事務所へ出勤し、そのまま更衣室へ向かいメイド服に着替える。ここで働き初めて一週間、少しずついろんな事にも慣れてきた。一番慣れたのはメイド服で、その次は哀牙さんの性格。殆どの人が抱くであろう「変人」という第一印象は、同じ時間を過ごしていると「愛嬌がある」というポジティブなものに移り変わった。害があるどころか人一倍気遣いが出来る方だ。それを意識的ではなく本当に自然にするものだから、桐島さんの言う通り悪い人ではないと思う。桐島さんも観察眼が鋭く、少しの変化にもすぐ気付くタイプだ。哀牙さんが探偵事務所に彼女を雇った理由がよくわかる。
ちなみに私のこの一週間の仕事を振り返ってみると、探偵業とは何ら関係ないものだった。紅茶を入れた後は掃除や洗濯。桐島さんに頼まれた雑務の処理や備品の購入。あとは哀牙さんが読みっぱなしにした本を元の位置に戻したり、哀牙さんにオススメされた推理小説を読んだり、仕事中に寝てしまった哀牙さんに毛布を掛けたり……あれ、もしかして私本当にメイドみたいになってるかも。
その間、依頼人は来ていない。大丈夫かなこの事務所なんて思っていたけど、桐島さん曰く今は閑散期らしい。探偵にも閑散期なんてあるんだ。来月になればバレンタインデーなども重なり、依頼はポツポツ来るようになるでしょうと桐島さんは言った。
ふと哀牙さんを見るとクロスワードとにらめっこしていた。いいんですか、所長がそれで。もっとこう、営業周り的なものはしないのだろうか。すると哀牙さんは何か思い付いたかのように顔を上げて私を呼んだ。どうせまた下らないことだと思う。
「名前殿!」
「何でしょうか」
「我が探偵事務所のメイドになり早一週間。そろそろ、この哀牙の事を『ご主人様』と呼んでみてはいかがかな?」
「嫌です」
何を言い出すかと思えば、やっぱり下らない事だった。「いかがかな?」じゃない。それを聞いていた桐島さんはボールペンを動かしていた手を止め、「お嬢様」とぽつりと呟いた。あ、桐島さんが乗ってきた。そう呼べと言うのか。どちらかというと私は哀牙さんより桐島さんに逆らえない。何故なら所長であるはずの哀牙さんもそうだからだ。
「お嬢様、何か御用でしょうか」
「ふふっ」
同性である桐島さんに対してなら特に抵抗はない。私の言葉に桐島さんは、計画通りと言わんばかりに口元を指で隠して笑った。哀牙さんはちょっと面白くなさそうにしている。
「では次は、我の事を」
「嫌です」
「ご主人様、と」
「所長」
「お呼び下され」
「星威岳所長」
少しずつ距離を感じさせる呼び方に哀牙さんはガックリと肩を落とした。ちょっと意地悪しすぎたかもしれない。けど改まってご主人様、なんて恥ずかしくて言えるわけがない。一体何の罰ゲームだ。でも哀牙さんは全然納得していなくて、まるでオウムに言葉を覚えさせるように、私に向かって「ご主人様」「ご主人様、ですぞ」と言う。いいえ違います、所長です。哀牙さんです。何となく、彼を喜ばせると後から別の形で色々返ってくる気がしてつい及び腰になる。
しかし一向に引き下がる気配のない哀牙さんにだんだん疲れを覚えてきたので、桐島さんに救助の視線を送る。桐島さんは私と目が合った後、壁に掛かった時計を確認して哀牙さんに言った。
「あら所長。もうこんな時間ですよ」
「む、ぐ、くく……! 致し方ない……桐島殿、名前殿、我はこれから所用にて出掛けます。事務所の留守を頼みますぞ」
哀牙さんは軽く荷物をまとめ始めた。所用があるなんて初耳だったけど、桐島さんにはちゃんと話が通っていたのだろう。
出かける支度を終えた哀牙さんは事務所のドアの前でピタリと止まり「行って参ります」と告げた。「お気を付けて」と声を掛けると、桐島さんも「行ってらっしゃいませ」と見送る。哀牙さんは私達の言葉を聞いてからドアを開けて行ってしまった。その時の表情が何だか名残惜しそうに見えて、
「……ご主人様」
とポツリと呟いた。言った後に桐島さんも居たことを思い出して振り向くと、だが彼女はデスクの書類に視線を落としていてこちらを気に留める様子もなかった。聞かれたかな。いや、聞かれてませんように。
「聞いていませんよ」と桐島さんが目もくれずにフォローをする。バッチリ聞かれてたようだ。誤魔化すように哀牙さんの所用について尋ねると、どうやら知人との約束らしい。私にも伝えておいてくれれば時間を伝えられたのにとこぼすと桐島さんは言った。
「名前ちゃんには教えたくなかったんですよ。その知人、所長の嫌いな人ですから」
哀牙さんの嫌いな人だから私には教えたくなかった、とはどういう意味だろう。よくわからず小首を傾げるが、桐島さんは意味深にフフッと笑うだけだった。
とりあえず私は、哀牙さんがいつ戻ってきても大丈夫なように散らかしっぱなしのデスクを片付け始めた。
(20120125 修正20160912)
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Smotherd mate