Act.5 さよならは紅茶味
「今までお世話になりました」
本日も仕事が無事終了。今日限りで桐島さんは哀牙探偵事務所を辞める。こんな時も彼女は冷静で表情を全く変えない。共に働いた期間は短いけど、桐島さんに親近感が湧いていた私は少し寂しい。哀牙さんは胸ポケットから真っ赤なポケットチーフを取り出してヒラヒラと振り、今生の別れにも感じる惜しみ方をする。それはちょっと大げさかな。
兎にも角にも桐島さんが居なくなるという事は、これからは哀牙さんと2人きりになってしまうということだ。桐島さんが居ない寂しさと、変人上司と2人きりになる不安が入り混じって、何とも複雑だ。そんな私の表情を汲み取ったのか、桐島さんが私の肩を優しく叩いて、親指で窓の外を差した。
「大丈夫ですよ名前ちゃん。交番はすぐそこですから」
「桐島さん……!」
「お二方! 我を差し置いて物騒は話はしないで頂きたい!」
背中に隠していた花束を前に出して桐島さんに手渡すと、少し驚きながらも嬉しそうな表情をして受け取ってくれた。今までに見たことがない表情だったので少しドキッとした。これがギャップ萌えというやつかも。
意外なことに、桐島さんが紅茶を飲みたいと言い出した。もちろん断る理由なんて無いので、私は元気よく返事をして給湯室へ向かった。
***
名前が去った後、哀牙と桐島の2人は応接用のテーブルを挟んでソファに腰を掛けた。桐島は名前から受け取った花束を丁寧に隣に置くと、静かに哀牙へ視線を向ける。長年一緒に働いていたとはいえ、彼女の何もかも見透かしているような双眸には未だに慣れていないのか、だがそれを悟られぬように哀牙はゆっくりと視線を逸らす。
「あんまり押しすぎては駄目ですよ、所長」
「どういう事ですかな?」
フッと桐島は鼻を鳴らす。名前が来てからの哀牙の行動は一目瞭然だ。そもそも、探偵事務所にあんな普通の子を雇うという時点で桐島には疑問だった。哀牙なりに何か考えがあっての事だろうとも思って様子を見ていたが、ただの杞憂に終わり
――純粋に哀牙の一目惚れだ、と桐島は思った。言われてメイド服を着てしまう彼女の浅薄さが最初は好きになれなかったが、今はその印象も違うものになっている。人を信じやすく、人懐っこく、人に心を許させてしまう彼女の隙が危なっかしいと心配こそすれ、手を振り払おうとは思わない。
実を言うと桐島もこの探偵事務所に入社した時、メイド服を着るよう言われていた。だが桐島はその観察力と発想力、探偵としての知識、事務能力を買われて入ったのだから、そのような下らない事に付き合う事は出来ない、というか辞めます、の一点張りだったので哀牙が押し負け、自分のスーツで出勤するようになった。つまり名前と桐島は正反対の性格だ。なるほど、所長はああいう子がタイプなのか、と桐島は自分の中で腑に落ちるような感覚がした。
「押しても駄目なら引いてみろ、ですよ」
「桐島殿が何を仰っているのやら」
「逆に気付かないほうがおかしいです」
哀牙は桐島の強い口調に顔を真赤にして、ダラダラと汗をかき、下唇を噛んだ。組んでいた足を直し、両の拳を腿の上に置く。まるで尋問されている気分だ。そんな哀牙の肯定的な態度に桐島はくすくすと笑った。この人も、自分の心には嘘を吐けない素直な人だ。顔に似合わず可愛い人だ。茶々を入れるつもりはないが、応援はしてあげたい、と桐島は思った。それは、哀牙が決して公私混同をする人間ではなく、名前が来てからも桐島との態度に差別や区別は全く無かったからだった。
「上手くいくと良いですね」
「桐島殿……!」
***
桐島さんに、私の好きな茶葉で入れていいと言われたので、せっかくだから今の時期がピークのディンブラを使ってミルクティーを入れよう。ディンブラは私の好きな"午前の紅茶 ストレートティー"でも使われている世界で愛されている茶葉だ。
いつもの様にお湯を沸かし、ティーポットを温めた後にディンブラの茶葉とお湯を入れて待つ。私は哀牙さんに初めて教えてもらった茶葉のジャンピングが見たいが為に、いつもガラスのティーポットを使用している。誰もが見たことのあるオーソドックスな、オレンジがかった鮮やかな紅色。
最後の一滴は桐島さんのカップへ。紅茶を3分の2程注いでから牛乳を加えると、柔らかいクリーム色が底へ沈みながら紅茶と混ざり合い綺麗な褐色へと変化した。この色が変わる瞬間が、私にとって秘密の魔法の様で、何度見ても飽きない。
3人分の紅茶をトレーに乗せて事務所へ戻ると、桐島さんは微かにニヤニヤしていた。対照的に哀牙さんは、先生に怒られた小学生みたいに頭を垂れていたが、私の姿を見るやいなやパッと表情を明るくした。訂正、迷子センターで母親の到着を待つ子供のようだった。
2人へ紅茶を出した後、私はどうしようかと思っていると桐島さんが哀牙さんの隣に座るよう手で示した。桐島さんの隣には既に花束が占領しているから仕方ない。3人で私の淹れた紅茶を楽しみながら、桐島さんとの最後の会話に花を咲かせる。
「そういえば桐島さん、次の仕事は何ですか?」
「いえ、転職ではなく、海外出張する夫に付いて行くんです」
もしここが自宅で飲んでいるものが市販の紅茶で哀牙さんが居なかったら、私は口から思いっきりミルクティーを噴き出していただろう。非常に危ないところだった。というか、え、なんかものすごく非現実的な言葉が聞こえた気がしたんですが。
…………話を聞くと、桐島さんはすでに人妻で(言い方がいやらしい)先程説明を受けたように旦那さんに付いて行き、向こうで専業主婦をするらしい。ここでの仕事は趣味を生かしたものであって、就業時間も割りと融通を聞かせて貰っていたようだ。成程、既婚者と言うことであれば、哀牙さんの対応も手馴れている事に頷ける。気になったのは結婚指輪を着けていなかったことだけど、仕事中は外す様にしている、と桐島さんは言った。
じゃあもう会えないかもしれないんですね、と言うと桐島さんは優しく否定して、またお会いしましょうね、と言ってくれた。
そうして、桐島さんは哀牙探偵事務所を去り、翌日の所内はいつもより静かで寂しく感じた。
(20120125 修正20160917)
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Smotherd mate