Act.7 マスター登場
探偵事務所に入社して早一ヶ月。
今までは桐島さんのデスクの隣にあるこじんまりとしたデスクが私の席だったが、本日から私は元桐島さんのデスクへ移動になった。どうやらデータ移行や書類整理などがまだ終わっていなかったらしく、哀牙さんはそれを毎日少しずつ片付けてくれていたのだ。私も手伝おうとしたけれど、個人情報が満載のその書類を手に取るにはまだ早いらしい。
二月に入り、桐島さんの言っていた通りポツポツと依頼が入るようになった。私は桐島さんに教えてもらった仕事の手順を生かし、電話応対や書類整理に追われる日々が続いていた。
依頼人が事務所へ来ては私のメイド姿に驚くので(当然だが)、この探偵事務所は大丈夫なのかと不安を抱かせるかもと心配だったけど、その後の哀牙さんの応対と美味しい紅茶によって事なきを得た。
哀牙さんは依頼調査の為の外出が、私は事務所で留守番をする時間が増えた。書棚にはいくつもの書類が所狭しと並んでいて、一番端の棚であれば私も読んでも大丈夫との事らしいので、とりあえず一冊抜き取ってパラパラと流し見るものの、やはりあまり面白いものでもない。
哀牙さんが居ないと静かでいいけど、やはり一人は寂しい。桐島さんも留守番をしている時はこうだったのかな……いや、彼女の事だから留守番だろうとなんだろうと仕事は仕事なので、平然とこなしていただろう。私もいつかそうなれるかな。
簡単な書類への記入も終え、電話も鳴らず、特にする事がない私は哀牙さんがオススメしてくれたシャーロック・ホームズの本を手にして読み始めた。
「さあれ、名前殿! この哀牙、只今誉れ高き地上の楽園へ舞い戻りましたぞ!」
バーンと効果音が付きそうなほど騒々しく哀牙さんが戻ってきたのは、ホームズが名推理をし始めた頃だった。哀牙さんは私の方へ近付いて、私が開いていた本の中身にルーペを向けてまじまじと眺めると「緋色の研究ですな」とズヴァリ言い当てた。これがシャーロキアンというものか。
気を取り直して本に栞を挟み、椅子から立ち上がって哀牙さんにおかえりなさいませ、と少し遅いお迎えをした。
さて、早速紅茶を入れに給湯室へ入り、茶葉の入った缶詰を手に取る……が。
「哀牙さん、すみません! 茶葉がもう無いのを伝え忘れていました!」
事務所へ慌ただしく戻り、哀牙さんに謝罪と共に報告する。ここ数日、電話応対と書類整理に追われていた為に茶葉を補充する暇がなく、とりあえず残っているもので毎日紅茶を入れていた。しかしその残り物すらすでに缶の底が見える程であり、哀牙さんが忙しそうにしていたからなかなか報告出来ずにいたのだ。
哀牙さんは壁に掛かった時計を見て、ふむ、と頷いた。
「申し訳ありませぬが、今、我は此処を離れられぬ身。なれば名前殿、我が示す栄光への道筋を辿っては下さいませぬかな?」
つまり哀牙さんは「私に茶葉を買って来い」と、そう言っている。この名探偵は、そう言っている! もちろん買いに行きますと了承すると、哀牙さんはお札を数枚入れた封筒と、お店の地図を渡してくれた。私はヘッドドレスとエプロンを外し、コートを羽織って、デスクで書類とにらめっこしている哀牙さんに「行ってきます」と伝えて事務所を出て行った。
最初は抵抗があったけど、今ではこの格好で外に出るのも大分慣れてきた。飾り気のない漆黒のロングスカートは私が歩く度にひらひらと揺れ、規則的なテンポを私に与えてくれる。コートを羽織っていれば目立つこともない。暖かくなってきたらどうしよう。まあ、それはその時に考えよう。
哀牙さんが書いてくれた地図を頼りにお店へ向かって歩いて行くと、目印の花屋の隣には確かにアンティーク調の可愛らしいお店が建っていた。看板には『寿亭六(じゅていむ)』とあり、紅茶専門店と謳っている。ここが哀牙さんの馴染みのお店か。
木製の重いドアを開けるとチリンチリンという控えめなベルが鳴り、お店の人が私の来店に気付いた。
「いらっしゃいませ、素敵なお嬢さん」
ああやはり、哀牙さんの馴染みのお店だけあって店員さんも変わっている。リップサービスとはわかっていても嬉しいものは嬉しい。私に声を掛けてきた店員さんは赤みがかった茶髪を後ろで一本に束ね、黒縁メガネを掛け、顎のヒゲは綺麗に揃えられている30代くらいの男性。店員と言うより店長という風格がある彼に、私はおつかいの旨を告げた。
「すみません、哀牙探偵事務所の者です。いつもの茶葉をお願いします」
こう伝えればいつも買っている茶葉のセットを詰めてくれる、と哀牙さんは言っていた。しかし茶葉を詰めてくれるどころか、店員さんは私の言葉に目を見開いてよろめいた。どうやらショックを受けているようだ。
哀牙さんとはどういう関係かを聞かれ、「上司と部下」と端的に答えると、どうやら私のコートの裾から出ているロングスカートがメイド服である事に気付き、憎々しげにカウンターを拳で叩いた。これは一体どういう反応なのかわからず、困惑しながら眺めることしか出来ない。というか茶葉はもう良いから帰りたい、なんか怖い。そう思いながら恐る恐る声を掛けると、店員さんはようやく正気を取り戻して笑顔を作った。
「失礼しました、私は『寿亭六(じゅていむ)』のマスター。哀牙めとは腐れ縁のようなものです。今、お嬢さんに茶葉をご用意致しましょう」
やはりこの人が店長、というかマスターだった。自らをマスターと紹介したその男性はいそいそとカウンターの向こう側で茶葉を缶に詰め始めた。
店内にはその場で紅茶とケーキを楽しめるテーブルもあったので、そこで待っているよう告げられた。
席にかけてお店を見回す。内装は可愛らしい小物やぬいぐるみがあちこちに置いてあり、何とも女性ウケしそうな感じだ。
するとマスターさんが「待っている間にどうぞ」とパウンドケーキと紅茶を持ってきてくれた。その好意により先程までのマスターさんへの不信感は消え失せ、私はそのふわふわ食感のケーキと美味しい紅茶をじっくり味あわせて貰った。我ながらチョロいと思うけど、甘いモノは正義だから仕方がない。
それから20分程で、マスターさんは茶葉のセットを詰めた紙袋を用意してくれた。中には特製のクッキーも入っているという。パウンドケーキもマスターさんの自作らしく、「美味しかったです」と感想を伝えると嬉しそうな笑顔を浮かべた。
こんなにサービスをして頂いて申し訳ないと思いつつ、お礼とともに支払いを済ませると、マスターさんはにっこりしながら「お嬢さんの為ならば」と何とも歯が浮きそうな台詞が出てきた。さらに「これからは哀牙めではなく、お嬢さんが来て下さるならばいくらでも」と付け加えられ、私はぎこちない笑顔で返すことしか出来なかった。
「ただいま戻りました」
「やや、名前殿! 無事にお戻りになり、この哀牙、安心致しましたぞ!」
しかし大分時間が掛かっていましたな、と言われたのでマスターさんの件を伝えると、哀牙さんは雷が落ちたような衝撃を受けていた。瞬時に私の肩を掴み、心配した表情で「変な事はされなかったか」と詰め寄ってくるが、変な人だったけど変な事はされてないので大丈夫です、と返す。
それよりもケーキと紅茶をサービスして貰って、クッキーまで頂いちゃいました、と喜び勇んで報告すると哀牙さんは喜ぶどころか一層怒りを露わにして「餌付けとは卑怯なり!」と歯を食いしばった。
私をお使いに行かせたのもマスターさんが居ない時間帯を狙っての事だったが予想が外れたらしく、大いに嘆いていた。
これ以上哀牙さんを刺激しないよう、「紅茶を入れてきます」と伝えて給湯室へ入り、紅茶を缶に詰め替え始める。ふわりと香ばしい茶葉の匂いが漂い、寒い風で冷えた体を早く温めたくなった。しかし今の哀牙さんはそれどころではないと思うので、急いで紅茶の支度を始めた。
(20120131 修正20161003)
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Smotherd mate