Act.8 初めての贈り物
いつも通り、哀牙探偵事務所へ出勤すると自分のデスクに着いている哀牙さんが上機嫌で私に挨拶をしてきた。鼻歌なんか歌っちゃって、そんなに良いことがあったのかな。現行の事件が片付いたのか、報酬が良かったのか、ホームズ関連で何かがあったのか、そんないくつもの予想をしながら更衣室へ向かおうとした時、嫌でも目に入るものがあった。
デデドン、と頭の中で効果音が再生されるほどの存在感を放つ、大きな額縁に入ったそれは――先日、私と哀牙さんで見に行ったトノサマンショーで撮られた写真。思わずズッコケそうになったが、咄嗟にテーブルを掴んで体重を支え、体勢を立て直す。その写真は大きく引き伸ばされて、哀牙さんの肖像画の隣に綺麗に飾られていた。
「待ってください何ですかこれは!」
私は写真を指差しながら哀牙さんに大声で異を唱える。しかし哀牙さんはデスクに肘をつき、両手の指を交差して組み、クックックと肩を揺らして笑うのみ。
窓から差し込む太陽光で哀牙さんは逆光になり、表情がよく見えない代わりにルーペが妖しくキラリと光る。探偵界の碇ゲン○ウかな、と思わずにはいられない姿に私まで笑いそうになるけどなんとか堪える。いやいや、笑ってないで外してくださいよ。恐る恐る額縁に手を掛けたところで、ようやく「ストォップ!」と口を開いた。その声に驚いて手を放すと、哀牙さんはツカツカと歩み寄って額縁に手を添えた。
哀牙さんがガードするものだから言葉で応戦するしかない。依頼人が来た時にどうするんですか困惑しますよ、肖像権の侵害を主張します、と言うと哀牙さんは口元に指を一本立てて「シッ、黙って」と私を大きな眼で私と写真を見比べる。う、言い過ぎたかな。どうしよう。
「いやはや、実に可憐に写っておりますな」
哀牙さんの視点がずれた言葉に対抗し、私は更に強めの口調で、そうじゃなくて哀牙さん良いからとっとと外してください、と改めて抗議をする。「然しながら」と哀牙さんは額縁に掛け、引っ張った……が、ビクトもしない。ああ、そういう手品かな? とか間抜けな事を考えていると、哀牙さんは衝撃的な一言を放った。
「直に貼り付けております故、既に剥がすことは不可能……イムポッシブルなのですよ」
「何してくれてんですか!?」
多分、今の私の反応はリアクション芸人並に褒められたものだったと思う。しかし声を張り上げずにはいられなかった。それから少しお互いの意見を言い合い、結局、依頼人が来た時は布などを被せて隠すという……私が折れる形となった。
壁に直接くっつけてしまったのなら仕方ないとしか言いようがない。哀牙さんが突拍子もない事をするのは今に始まったわけでもないし、以前勤めていた会社に比べれば天地の差があるほど良い上司だ。でも本人には言わない。
携帯のカメラ機能で額縁に入った写真を撮ってから私は更衣室へ向かった。
着替えを終えて事務所に戻ると哀牙さんはソファに寄りかかっていたので、今日の紅茶は何が良いですか、と尋ねてみるが返事がない。不思議に思って近付いて見ると、なんとすやすやと小さな寝息を立てて眠っていた。やっぱり疲れているんだ。
ここ最近、いくつもの調査依頼が重なっていたのは私も知っているが、探偵として動けるのは哀牙さんしか居ない。何かしら役に立ちたいとは思うけど、今の私では力不足だ。
スケジュールボードを確認すると、今日の来客予定は特になし。とりあえず今は寝かせておいてあげよう。でも寝るときにもルーペを付けているなんて顔が疲れそうだ。手を伸ばしてそっとルーペを外し、素顔の哀牙さんを見たとき、一瞬言葉を失った。
なんというか、その、一言で言えば……格好良い。『メガネを外すと美少女』という言葉はギャップ萌えに近いものだと私は思っていた。そう、確かにそうだと思っていた。
ふと視線を下げると哀牙さんのチャームポイントである赤いリボンが少し解けていたので、これも寝苦しそうだと思い、ゆっくりと静かに解いて首元からそっと抜き取り、畳んでテーブルにルーペと一緒に置いた。ルーペとリボンがなくなった哀牙さんはいつもの妙ちきりんなイメージから少し離れ、彼を上司ではなく異性として意識してしまった。
異性……その言葉を頭の中で反芻すると、顔がほのかに熱くなるのを感じた。
気持ちを切り替えようと、自分のデスクに腰を掛けると昨日まで無かったものが置いてある。薔薇の飾りが付いた楕円形の写真立ての中には、額縁に飾られていたものと同じものが入っていた。哀牙さんがわざわざ用意してくれたのかな、その心遣いが嬉しい。あんな大きな額縁に引き伸ばされたものではなくこれで十分なのに。
哀牙さんのデスクに似た形のものを発見したので見に行くと、同じものが置いてあった。どれだけ嬉しかったんだろう……何故か私が照れくさい。
そうだ、私も哀牙さんが寝ている内にちょっとした仕掛けでもしておこう。前日に作っておいたものをバッグから取り出して、哀牙さんのデスクの引き出しにこっそりしまった。
正午の軽やかなチャイムが鳴り、哀牙さんが目を覚ました。テーブルに置かれたルーペを装着し、赤いリボンを慣れた手つきでシュッと巻いた後、お弁当を食べている私の元へ近付いてくる。
「申し訳ありませぬ、名前殿。我としたことがレディに醜態を晒すなどあってはならぬことを」
「お疲れのようでしたので。大丈夫ですか? もう少し休んだ方が……」
私が心配の声を掛けると、哀牙さんはいつもの調子で「心配ご無用」と言い、自分のデスクで書類と睨み合いを始めた。
私もお弁当を片付けて、過去の案件が収まっているファイルを手に取り今までにどういった事例があったのか自分なりに勉強をする。
この資料を見るに、哀牙さんはほとんど自宅へ帰っていないのではないだろうか。撮影された写真の時刻は、通常の会社の就業時間では有り得ないようなものがほとんどだった。
私が出社する時はすでに事務所に居るし、退勤する時も帰る気配がない。もしかして事務所兼自宅にしているのかな。けど事務所にはベッドらしいベッドもなければお風呂もない。出来れば自宅で休んで欲しいけど、この忙しさでは帰ることも出来ないんだろうな。ならそう出来るように、私も哀牙さんの力にならなければ。そう思うと私は仕事に対してのやる気がより燃え始めた。
退社時間になっても帰る気配のない私に気付いた哀牙さんが声を掛けてきたが、未だやる気の燃え尽きぬ私は手伝う事はないかと問う。すると今のところ特に無いと返ってきたので寂しい気持ちになり、私の中の炎は不完全燃焼のまましょんぼりと虚しく消えていった。このまま残っていても哀牙さんの迷惑になるだけだし、今日はもう諦めて帰ろう。
更衣室で私服に戻って探偵事務所のドアを開ける。外に出ようとした時、一つ思い出した事があったのでその場で足を止めて哀牙さんの方へ振り向いた。
「哀牙さん、デスクの上の書類に目を向けるのも大事ですが、たまには中も見てくださいね」
それだけ言って逃げるように立ち去ったが、哀牙さんがキョトンとした後すぐにデスクの引き出しに手を掛けていたのが見えた。
中には私が哀牙さんへ向けたささやかな贈り物。二月の中旬、女性から男性へ手渡す事がメジャーとなった風物詩。別段深い意味を添えたわけではなく、日頃の感謝を込めたものなので、単純に喜んで貰えたら幸いだ。
階段を下りきって通りに出ると、頭上から「名前殿!」と私を呼ぶ声が降ってきた。上を向くと、窓から身を乗り出して哀牙さんがこちらを見ていた。あ、窓の存在をすっかり忘れていた。まさか今ここですぐに声を掛けられるとは思ってもいなかった。
「大変申し訳無いのですが」
哀牙さんが放つ何かを断る前提の言葉に、私は嫌な予感がして不安になる。そんな些細な感謝の気持ちも受け取って貰えないのだとしたら、悲しい上にあまりに滑稽だ。
「――このチョコレエトに合う紅茶を、今から淹れては頂けないでしょうか!」
だが予想に反した言葉を哀牙さんは続けて伝えてきたので、私は「すぐに行きます!」と短く返して、下りてきた階段を再び駆け上がる。
どうしてだろう、この気持ちを言葉にするのは何だかこそばゆいけれど、素直に表現すれば当てはまるのは『嬉しい』という感情だった。
(20120314 修正20161007)
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Smotherd mate