Act.9 迷走する真心・上
哀牙さんが私のメイド服を腕に抱えている。それは私がこれから着ようとしていたものだ。私に背中を向けて、1歩、2歩と足音を立てずに遠ざかって行く。妙に胸がざわついて嫌な予感がする。それをどうするんですか、と無機質な背中に声を掛けた。
「必要ない」背を向けたまま一言、哀牙さんは無感情に言い放った。それは、メイド服ではなく、私がこの探偵事務所に必要ないという事だろうか。膝から崩れ落ちそうになるのを必死に抑える。やっと、ここでなら長く続けられそうだと思えた頃だったのに。私が今まで頑張ってきたことは無意味だったのだろうか。哀牙さんは手に持っていたメイド服を暖炉の中に放り投げた。火は少しずつ服に広がり、あっという間に燃えていく。やめて、その制服はただのメイド服なんかじゃない。必死に手を伸ばすが、届かない。それは私にとっては大事な……、……誰かお願い……、私を――
「――助けてくだされ!」
…………え?
私は鮮明に聞こえてきた哀牙さんの悲鳴に驚いて目を開けた。目の前に映るのは見慣れた探偵事務所の天井と、何かを掴んでいる私の手。その手に注視すると、傍に哀牙さんの顔がある。そう、私が掴んでいたものは哀牙さんの長い鼻だった。私は慌てて手を離し、哀牙さんに平謝りする。
「ぎゃあああああ! ごめんなさい!」
「は、鼻が折れるかと思いましたぞ……!」
割りと力を込めて握ってしまったらしく、哀牙さんは赤くなった自分の鼻をすりすりと撫でていた。慌てて謝罪を続けるが、哀牙さんは特に怒ったりせずに優しく受け入れてくれた。
ソファには一冊の本が落ちていて、どうやら私は哀牙さんが不在の間にそれを読みながら寝てしまっていたようだ。……それにしても嫌な夢だった。額に触れるとじんわりと汗をかいていた。哀牙さんは私の様子に気付き、紅茶を入れてきましょう、と言って給湯室へ向かう。その背中がさっきまで見ていた夢の続きみたいに思えて、私は咄嗟に声を掛けた。
「哀牙さんっ!」
「……名前殿? どうなさいましたかな?」
哀牙さんは立ち止まって振り返る。これは夢ではない。キョトンとした顔の哀牙さんに少し安心する。しかし声を掛けたはいいが、何を言えば良いかわからない。
「あ……、私が入れるので、大丈夫ですよ……」
「しかし、」
「だって私、それくらいしかお役に立てないから……!」
そう言った直後の哀牙さんの表情がとても悲しそうで、私はなんて事を言ってしまったんだと後悔した。口から出た言葉はもう取り消せない。冗談です、なんて取り繕うとも思えない。私も泣きそうだが、哀牙さんの方がもっと泣きたいに決まっている。貴方のせいではないとちゃんと説明をしなければ。心の中で思っていたって相手に言わなければ伝わらない。喉の奥が苦しくて、胸が締め付けられて、どうしようもなくなった私は自分の発言を悔やみながら謝った。
「すみません……最近、自分に自信がなくて。哀牙さんは毎日大変なのに、大したお手伝いも出来ない自分が情けなくて」
私はまだこの探偵事務所でほとんど雑務しかしていない。けどそれも会社を影で支えている大事な役どころというのを理解していたつもりだった。しかし心は正直で、本当は私も桐島さんの様にもっと仕事の核的な位置で哀牙さんの役に立ちたかった。哀牙さんが昼夜問わずに働いて心身ともに疲れているというのに、私は何も貢献出来ていないのではないかという懐疑心が、罪悪感が、日ごとに強まっていった。私はそんなに頼りないのだろうか、危なげで信用出来ないのだろうか、と。
そんな心の内を明かさずに端的に説明すると、哀牙さんは優しく微笑んだ。
「名前殿、貴方は十分、我が探偵事務所に必要な存在ですぞ」
哀牙さんとしては、いきなり事務所に引きずり込んだ挙句あれやこれやを押し付けるのはあまりに申し訳ないと思っていたらしい。仕事を押し付けるよりも、まずメイド服を着させる方がレベルが高いのでは、と思ったが言わないでおこう。
「そんなこと気にしないでください、私だって探偵事務所の一員です! もっとこき使って下さい!」
声を張り上げてそう言うと、哀牙さんは驚いた顔をした。間を置いて、クックック、と声を漏らして笑う。自分でも恥ずかしい事を言ったのは自覚しているが、そこまで言わないと分かって貰え無さそうで。
「そこまでの覚悟を伝えて貰っておきながら言うのは忍びないのですが……実は更に忙しくなる来月から名前殿に探偵のノウハウを教え込もうと思っていたのですよ」
「えっ……」
つまり、哀牙さんは私を信用していないわけでも、私の力量を見くびっていたわけでもなく、ただ時期を見ていただけ。流石に今後の依頼が重なってくると1人で捌けなくなってくるから、その時こそ私の出番だと哀牙さんは言った。だったら尚更早めに教えた方が、と控えめに言うと哀牙さんは首を横に振った。ここ最近の仕事は急を要するものばかりで教える暇が無かったらしい。
私の不安や心配は、私が勝手に先走って色々考えてしまっただけの一人相撲だ。現実を知ってしまえば恐れるに値しないし、夢は夢だと分別出来た。逆に私が哀牙さんを信じていなかっただけと考えると、強い慙愧の念に耐えられない。心の中で自分を責めている私に対して哀牙さんは「名前殿も探偵として意識が芽生えてきたのですな!」と励ましてくれた。こういう時の彼のポジティブな思考とフォローセンスを私も見習いたい。徐々に思考の輪郭が明瞭になってきたので頭を冷やそう。事務所前の掃除をしてきますと哀牙さんに告げ、更衣室、兼休憩室、兼作業屋の用具入れから箒を取り出して、逃げるように外へ飛び出した。
冬の空は薄い青色がどこまでも澄み、白い雲がゆっくりと流れている。太陽の光は柔らかく降り注ぎ、風は冷たくともそこまでの寒さは感じない。事務所前の通りにちらほらと落ちている落ち葉を丁寧に一箇所に集めていく。焼き芋とかしたら楽しそう、なんて脳天気な事を考えながら箒で掃いていると、1人分の足音が後ろから近づいて来た。通り過ぎる事無く私の背後で立ち止まったその足音に振り返ると、立っていたのは哀牙さんが贔屓にしている紅茶専門店『寿亭六(じゅていむ)』のマスターだった。
「こんにちは、マイ・フェア・レディ。精が出ますね」
「マスターさん、こんにちは。哀牙さんに何か御用でしょうか?」
私の問いにマスターさんは肯定した。珍しい来客だ。マスターさんは、哀牙さんとは腐れ縁と言っていたが、実際に2人が一緒に居るところは見たことがない。
少々お待ちください、と声を掛けて集めた落ち葉をさっと袋にしまう。階段の内側に箒と袋を一時的に置き、マスターさんを事務所内へ案内する。マスターさんがドアを開けて中へ一歩入った瞬間、バケツが上から降ってきて頭にすっぽりと覆い被さった。そしてドア横の壁際からスッと哀牙さんが現れ、ルーペの外枠でコンコンココンコンコンココンとリズミカルにバケツを叩く。中ではきっと甲高い音がやかましく響いている事だろう。
「ええい、やめんか、哀牙め! 小賢しい真似を!」
「これはこれは、コガネイ殿でしたか。我はテッキリ、我が事務所のメイドに危害を加えんとする魑魅魍魎の類かと」
頭からバケツを取り外して脇に抱え、哀牙さんに激昂するマスターさん。そんな怒号を物ともせずいつもの調子で、いや、いつも以上に調子に乗って皮肉をぶつける哀牙さん。気まずい険悪なムードを想像していたが、私にとっては逆に安心するくらい清々しく、子どもみたいな喧嘩を始めた。早く本題に移って貰おうと、私は遠慮がちに2人の間に割って入る。
「あの、マスターさんってコガネイさんというお名前なんですか?」
「あっ……私としたことが、申し遅れておりましたね。黄金一 滴(こがねい しずく)と言います。お嬢さんのお名前は?」
「私は……」
「貴様に教える名など持ち合わせておらぬッ!」
私の言葉を遮って哀牙さんがそんな意地悪を言う。今度は私が割り込む隙もなくなるほど2人がヒートアップした。ダメだ、これはもう私が介入できる事態ではない。とりあえずマスターさんがお客様であることに違いはないので、紅茶を入れに給湯室へ向かう。それにしても哀牙さんはいつの間にあんな罠を仕掛けたのだろう。私が事務所を出て行った時は無かったから、もしかして、窓から2人で話しているのを見たのだろうか。なんというイタズラっ子の早業だ。先程までの静かで緊張感漂う事務所内の空間は、2人の子どもじみた言い争いによって粉々にぶち壊されていた。
「して、矮小なる一市民がこの誉れ高き地上の楽園に何用ですかな?」
「依頼人に対してその態度はどうなんだ貴様! このエセ探偵が!」
紅茶を入れて事務所に戻ると、応接用ソファに向かい合いながらまだ嫌味を言い合っていた。私が2人に紅茶を出すと、哀牙さんが隣に座るよう誘導してくれたので、お言葉に甘えて座らせて貰う。湯気の立っている紅茶を見たマスターさんは険しい顔から一変し明るくなった。
「私が作った茶葉でお嬢さんが紅茶を入れてくれる……すなわち初めての共同作業ですね」とマスターさんが嬉しそうに言った。そうですね、とくすくす笑いながら返す。哀牙さんは不機嫌気味に早く用件を述べるよう急かすがマスターさんはそれを無視して紅茶を堪能するので、ますます哀牙さんの眉間には皺が寄った。後が怖いと思い私からマスターさんに依頼の内容を尋ねると、カップに付けていた口を離しソーサーに置いて口を開いた。
「哀牙よ、私がかねてより焦がれていたボルジニア産のティーセットを知っているな?」
「ふむ、アレですな?」
「ああ。それを所有する美術商との長い交渉を経て、先日、ついに手に入れ、私の手元に届いたのだが」
哀牙さんはその言葉に「なんと!」と驚きの声を上げた。それは先程までマスターさんを茶化していたものとは180度変わり、今は彼の言葉に真剣に耳を傾けている。私は2人の空気に付いてこれないでいると、哀牙さんが
「名前殿、此奴が手に入れたソレは30万はくだらないでしょう」
と教えてくれた。ビックリして悲鳴に近い声を上げる。マスターさんの話の続きを待っていると、彼は青ざめながら震える唇で言葉を紡いだ。
「……それがつい先程消えたのだ」
「は?」
どうやらマスターさんが此処へやってきた理由がようやく見えてきた。そしてほのかな事件の香りに、不謹慎ながらも少しだけワクワクする自分が居た。
(20120411 修正20161029)
[
←
|
title
|
→
]
Smotherd mate