Third Move
何の音もしない静かな私の部屋に、コンコンというノックが聞こえてきた。足早にドアへ近付き、念の為に今度はきちんと覗き穴で確認すると、今度こそ内藤君がそこに居た。
安心してドアを開け、お礼を告げる。
「さっきはありがとう、内藤君」
「少しは落ち着いたか? 苗字」
「うん。立ち話もなんだし中に入る?」
「俺を部屋に上げる意味、わかってんのか?」
「話をする為でしょ?」
私の返答に内藤君はハァーと大きな溜息を吐いた。……私、変なこと言ったかな。あの日の告白について私も気持ちの整理をしたし、内藤くんの本心を聞く覚悟も出来た。けど内藤君は、どうやら私とは少し違う心持ちのようだった。
「あー……わかった。もう良い。その通りだ」
とりあえず話を進めようと内藤君は適当な返事をして部屋の中へ一歩入り、しっかりと鍵を閉めた。
窓際にはテーブルと一脚の椅子があったので、そこに座ってもらう。私は冷蔵庫から未開封の緑茶の缶を取り出して内藤君の前に置き、自分は傍のベッドに腰掛けた。
「こんなに遅くまで仕事だったんだね、お疲れ様」
「すまん、もっと早く来るはずだったんだが」
「あんまり遅かったら寝るつもりだったから、気にしないで」
「おいコラ。行くって言っただろうが」
「で、今日の仕事は終わり?」
「いや『見回りに行ってくる』って出てきたからそう長くは居られねえな」
ということは、実質まだ仕事中って事か。内藤君って結構自由だなぁ。しかも、それって私に会う為に吐いた嘘だよね。あれ、私もある意味同罪?
それにしてもまさか仕事先で会うなんて本当に偶然だね、と話を切り出すと内藤君の顔から笑みがふっと消えた。何かマズイことでも言ってしまっただろうか。すると内藤君は、真剣な顔で私を見据えながら「偶然じゃねえ」と呟いた。
「今回の仕事は苗字の会社が絡んでいると知っていたから、俺もこの仕事を引き受けたんだ。本当にお前に会えるとは思っていなかったがな」
「そうだったんだ……」
それしか言葉が出てこなかった。
否、私の胸の鼓動が、それ以外の言葉を発するのを許さなかった。
「好きだ、苗字」
不意に呟かれた告白に、私は言葉が詰まる。
「好きなんだ、苗字の事が」
真っ直ぐに私を見つめてくる内藤君の目には、きっと私しか映っていないのだろう。
もう逃げられない。ううん、本当はもう、逃げるつもりなんて毛頭ない。
だって、私だって、内藤君の事が……。
「……あの日、私が逃げ出さなければ、今と同じ言葉を聞けたのかな」
「言っただろう? 俺はあの時から何も変わっちゃいないって」
フッ、と息を漏らして内藤君が小さく笑う。
「返事を聞かせてくれ」
「これじゃあ、あの時と立場が逆だね」
「いいだろ、こういうのも」
私はベッドから立ち上がって、テーブルを挟んで内藤君の前に立ち、意を決して言葉を放つ。
「ごめんね、私、嘘をついた」
内藤君は、ただじっと私の言葉を聞いている。
私は両手の指を交互に重ねてを強く握りしめる。
「本当は私、今でも内藤君が好き。この間も偶然見かけた時は、夢じゃないかと思うくらい嬉しかった。私の気持ちだって、あの日から全然変わってなかったんだよ……!」
私の気持ちが伝わるように、声を絞り出して本音をぶちまける。
忘れられるはずがない。忘れたふりをしただけ。
9年経って、久しぶりに見かけた大人の彼は―――私の目を釘付けにした。
内藤君は何も言わずに椅子から立ち上がって、私へ向かってきた。
「えっ、あのっ、」
後ずさるも、私の背後は窓しかなく、これ以上は下がれない。
内藤君は窓に手をついて、顔を近付けてくる。
「なあ、今度は本当か?」
「えっ……」
「これが、お前が逃げ出せる最後のチャンスだ。……今の言葉は、信じていいんだよな?」
「……うん、いいよ」
そっと目を閉じて少しだけ顔を上げる。
内藤君は逃がさないようにと、私の頭に手を添えて……お互いの唇が、重なった。
交わるのは視線と吐息。
触れた唇は柔らかく、そして熱かった。
「ん……ッ」
「名前、好きだ、名前……」
角度を変えて、何度も口付けを交わす。
ぬる、と内藤君の舌が私の唇をこじ開けて口内へ侵入してくる。
今までにない感触に、私はより強く瞼を閉じて、縋るように内藤君の背中に腕を回す。
それに応えるように、より私の頭を支える手に力が込められる。
もう片方の腕は私の腰に回されて、逃さないと言わんばかりに抱き寄せられた。
「な、いとー……くん……」
「名前で呼べよ……名前……」
「ま、馬乃介くん、……んむっ、」
何度も、何度も、唇が重なり、舌が絡みあう。
呼吸が上手く出来なくて、少し苦しい。
心臓が、聞こえそうなくらいドクドクと強く脈を打っている。
ようやく内藤君の顔が少し離れて、私は乱れた呼吸を整えようと試みる。
静かに瞼を開けると、目の前の内藤君の余裕のない表情にドキッとした。
内藤君は何も言わずに私を横抱きにして、そのままベッドに優しく寝かせる。
私に覆いかぶさるようにして、首元に顔を埋めてチュッチュッ、と音を立ててキスをする。
髪の毛が頬に当たって少しくすぐったい。
「な、内藤くんッ、待ってッ!」
「馬乃介、だ」
「ま、まのすけ、くんッ……!」
懇願するように情けない声を絞り出し、馬乃介君の頭に触れる。
馬乃介君の唇が、髪が、舌先がこそばゆくてたまらない。
ビクビクッと体を震わせると、私の頬に手を添えてまた唇を優しく重ねて、離す。
「俺は"あの日"……何度もお前に連絡を取ろうとした。だが、勇気が出なかった。情けねえガキだった。それから……ずっと後悔したんだ」
「そうだったの……?」
「ああ。だからこの前、名前にまた会えた時はすげえ嬉しかった……同時に、誓ったんだ」
頬に添えてある手が、優しく撫でてくる。
その感触は何だかくすぐったくて、でも温かい。
「もう逃さねえって」
シュルリとネクタイを解くと、彼の鎖骨が目に入った。
彼を男だと意識する度に胸がドキドキして仕方ない。
「ま、待って、な、何する気?」
「んな野暮な事、聞くなよ」
「ッ……!」
ジャケットを脱ぎ捨ててワイシャツのボタンを一つひとつ外し、馬乃介君の胸板が顕になる。
真ん中辺りまで外した所で手を止めて、今度は私の上着のチャックに指をかける。
すかさず私はその手を掴んで、首をブンブンと横に振る。
「ま、待って待って! 私、心の準備がッ!」
「待てると思うのか? この状況で」
「やだ、お願い……っ 嫌っ」
馬乃介君の手を押さえる私の手に、力を込める。
もちろんそんな事で止められるなんて思ってはいないが、私にはそれくらいしか抵抗をする術がない。
「……嫌と言われちゃ、仕方ねえよな」
だがしばらく睨み合っていると、馬乃介君が頭を上げた。
ふっと、私の体から馬乃介君の重量がなくなる。
「……すまん、どうかしていた」
ベッドの端に腰を落とし、額に手を当てて頭を垂れた。
私は何だか申し訳なく思って、その広い背中に抱きついて謝る。
「ご、ごめんね……! 本当は、嫌じゃないの。でもまだ、恥ずかしくて……!」
「……恥ずかしいのはお前だけじゃねえよ」
「そ、そうなの……?」
私が聞くと、馬乃介君は私の手を掴んで自分の胸に直に触れさせた。馬乃介君の心臓は力強く、激しく脈を打っていた。
もしかしたら私以上にドキドキしているのかもしれない。
「すごいね……」
「うっせ……」
余計に恥ずかしくなったのか、馬乃介君はその手を離して再び私に向き直る。
私の体を抱き寄せて、大きな腕で優しく包み込む。
体を強張らせると、馬乃介君はフッと笑った。
「何もしねえよ」
「本当?」
「ああ。――今はな」
その言葉に、今後改めて襲われるであろう未来を予想してしまう。
馬乃介君は静かに私から離れて立ち上がった。
「さて、行くか」
「あ、そっか……仕事に戻らないと、だね」
「ああ、それに――」
シャツのボタンを止め直し、器用にネクタイを締める。
床に脱ぎ捨てられたジャケットを拾い、手で少し埃を払う。
右腕を袖に通した後、背広を少し浮かせてそのまま左腕もサッと通す。
その一連の流れすらもかっこよくて見入ってしまう。
「ここに居ると、何しでかすかわかんねえからな」
「な、何言って……!」
ニッと笑って、スーツのポケットからインカムを取り出した。
「それとも、お前も一緒に行くか?」
「ひゃっ!?」
急に横抱きに持ち上げられて小さな悲鳴を上げる。
馬乃介君の力が強いから安定してはいるが、安心は出来ない。
「ちょ、ちょっと……下ろして、重いからッ!」
「このまま戻ったら面白そうだな」
「面白くない〜!」
慌てふためく私を抱えながら、ずんずんと部屋のドアへ歩いて行く馬乃介君。
このままでは、この恥ずかしい状態のまま人目に晒されてしまう!
と、思っていると馬乃介君はドアの前でピッタリと止まった。
「名前からキスしてくれ」
「なっ……!」
「でなきゃこのまま外へ出る」
器用に、私を抱えながらドアの取手に手を掛ける。
「わ、わかった! わかったから……目、瞑って?」
「断る」
「そ、そんなの無理に決まってるじゃない……!」
そう言うと、馬乃介君は何も言わずにドアを少しずつ開き始めた。
「待ってわかった! する、するから!」
その開きかけのドアを、即座に手で押して締める。
一枚上手、そう表現するには相応しい男だ。
「最初から素直にそう言やいいのさ」
馬乃介君が、口づけをしやすいように首を少し下げてくれる。
それに応えるように、私は彼の首に手を回して、抱きつくように唇を重ねた。
すぐに離そうとするが、馬乃介君が私を抱く力が強くてそれは叶わない。
「んん〜〜〜……ッ、ぷはっ」
「ご馳走様」
最後にペロリと舌先で私の唇を舐めて、ゆっくり下ろす。
この策士め。おかげで私の心臓は今日一日働きっぱなしだ。
「王大統領は2日後には帰国するから、仕事が落ち着いたらまた連絡する」
「うん、わかった……気を付けてね」
「サンキュ。あ、ちゃんと鍵は締めて寝ろよ」
「う、……はい……」
クックと笑みを漏らしながら、馬乃介君はドアの向こうへ行ってしまった。
鍵が掛かっている事を確認して、再びベッドに寝転がると、少しだけ馬乃介君の匂いがした。
それだけでドキドキして仕方がない。
私は、先ほどの出来事で頭の中でいっぱいで、なかなか眠りに付けなかった。
「ふあ……もう少し寝たい……」
昨夜、あれだけ興奮して寝付けなかったというのに、結局いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
重い瞼をこすりながらゆっくり体を起こす。
まだ少し、頭がボーっとしている。
馬乃介君とキスをしたのは、夢じゃなかったのかな。
ここ数日で起こった出来事を整理しようと、私は馬乃介君の名刺を取り出した。
やっぱり、馬乃介君と再会出来たのも、両想いになれた事も現実だったんだ。
ふと窓の前のテーブルを見ると、プルトップが開いた緑茶の缶が置いてある。
急に実感が湧いてきて、自然と口元がニヤけてしまう。
この幸せな気持ちを堪能しながら、私は出社準備を始めた。
会社に着いて、リーダーにまず昨日の打ち合わせの内容を報告する。
その後チーム全体でテーブルを囲み、簡単な書類を配る。
後輩にも先輩にも「苗字さん、なにか良いことあったの?」と何度も聞かれるが、私は「何もないです」と内心の焦りを隠すように早口で答える。
う、私の表情ってそんなにバレバレかな。
なんとかキリッとした顔つきをしようと試みるが、どうしても昨夜の出来事が頭から離れなくて、へにゃっとしたアホ面を晒してしまう。
「……やっぱり苗字さん、何かあったんだね」
「わかりやすいわー……」
そんな言葉も、今の私の耳には届いてこなかった。
翌日の夜、馬乃介君から電話が入った。
予定通り王大統領は帰国し、仕事が一段落したようだ。
けれど話はそれで終わりにはならなかった。
電話ではなく直接話したいと言い、これから私の家に来るらしい。
私は急いで部屋の片付けを始めて、好きな香りの芳香剤を少しだけ振り撒く。
20時過ぎに馬乃介君がやってきて私は部屋へ招き入れる。
「へぇ、綺麗にしてんだな」
「まあねー」
初めて彼を私の部屋に招いた。
そんな些細な事すら緊張してしまう。
「おい、この缶、中身入ってねえぞ? 捨てねえのか?」
「あっそれは……!」
馬乃介君がテレビ台の上に置いてある緑茶の缶を目ざとく見つけ、手に持って振る。
失敗した、と心の中で叫んで急いで馬乃介君からその缶を奪い取る。
「……ん? これ見たことあるな」
「こ、こんな緑茶の缶、どこにでもあるじゃん!」
「それ、お前がホテルで俺に出してくれたやつじゃねえか」
まさに図星を付かれて、私は恥ずかしくて堪らない。
胸元で隠すように、強く缶を握る。
「……へえ、可愛いとこあんだな」
馬乃介君が私に近付き、くい、と顎を持ち上げて触れるだけのキスをする。
「シたいなら、直接シてやるから俺に言えよ」
「ま、馬乃介くんは〜〜〜ッ」
どうして平然とカッコいいことを出来るのだろうか。
私なんて、こんなに余裕がなくて、情けないったらありゃしないのに。
「い、今飲み物持ってくるから、待っててっ」
「おう、サンキュ。缶はちゃんと捨てろよ? ここに本物がいんだからよ」
一言、余計なんだよ……っ!
私は流しに缶を一旦置いて、冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐ。
テーブルのそばに座布団の上にあぐらをかいて座る馬乃介君。彼の近くに麦茶をコツ、と置く。
私も向かい側に座って、麦茶を飲む。
ちら、と彼の顔を覗けば何やら神妙な面持ち。
何かあったのだろうか。
私が馬乃介君の言葉を待っていると、静かに口を開いた。
「名前、俺と西鳳民国に行かないか?」
「えっ?」
突然の申し出に、聞き間違えじゃないかと自分の耳を疑った。
今、何て言ったの?
「俺達の会社の奴らは、来週の金曜の午後から、西鳳民国へ出張に行く。王大統領が、自国内での警護も俺達に依頼してきたんだ」
「そ、そうなんだ……」
「……いつ、帰ってこられるかわからねえ」
「そっか……」
馬乃介君は、差し出した麦茶のコップを握ったまま一切口を付けない。
表面には水滴が付いていて、静かに流れて馬乃介君の手を伝う。
「俺は……あの時、逃げちまったお前をようやく捕まえる事が出来たんだ。もう、俺はお前を逃がさないし離したくねえんだ」
「……」
急すぎて言葉が何も出てこなかった。
「お前は俺と一緒に付いて来てくれるだけで良い」
「で、でも……」
突然の申し出に、私はどうしたらいいのかわからない。
迷いだけが私の心を満たしていく。
「出来るなら今すぐお前を連れ去って、ずっと俺の傍に置いておきてえ。でもそれはお前の望みじゃねえ。俺は、お前の気持ちも大事にしたい。……ただ名前が、『行く』って言ってくれりゃそれでいいんだ」
彼なら、私を本当に浚いかねない。
それでもその衝動を抑えて、私に丁寧に説明をしてくれている。
「……私、今すぐに答えは出せないよ……ごめん……」
「そうだよな、悪い……1人で焦っちまった」
やっと言えた一言だけど、その言葉だけで精一杯だった。
離れたくない。
本当なら、彼に付いて行きたい。
でも、今の生活を捨てて、仕事を捨てて、彼に縋り付くだけの未来が今の私にはまだ想像も出来ない。
「……お願い。少しだけ考えさせて」
「…………わかった。また明日来る。お前の気持ちが傾くまで何度でもな」
そう言った彼の表情はいつも通りの不敵な笑みのようだが、微かに陰りを帯びていた。
彼だって突然の海外出張で不安なのだろう。
もしくは私と同様、寂しくて堪らないのかもしれない。
話を終えた馬乃介君は、私にまた優しく口付けする、
そして足早に私の部屋から出て、すぐに自分の車に乗り込んで走り出してしまった。
月明かりは雲に隠されて、私の心を表しているかのように真っ暗な世界が広がっていた。
(20120113 修正20160817)
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Smotherd mate