(2/5)
『名前殿、話とは何でしょうかな?』
『……哀牙さんの仕事が忙しいのはわかってます。私もそれを支えて行きたかった』
行きた"かった"という過去形に、哀牙さんは嫌な予感が的中したかのような暗い表情を浮かべ、申し訳なさそうに頭を下げた。
『すみませぬ。我が至らぬばかりに、貴女に寂しい思いをさせてしまった』
『謝らないで。仕事を頑張る哀牙さんは素敵ですから。むしろ駄目なのは私の方です』
『そのような事は……』
弱々しく否定する彼をなるべく視界に入れないように視線を下げると、手元のティーカップに満たされた緋色の紅茶に反射する自分と目が合った。
最近は哀牙さんとのすれ違いが増えた。
一番の原因は仕事だ。彼の探偵としての仕事が軌道に乗ると、忽ち会う時間が減ってしまった――だけではなく、たまの休日に会えた時も彼はいつもどこか上の空だった。一緒にいる時くらい、私の事だけを考えて欲しかった。
五年も付き合っていれば付き合い始めの頃の様な情熱も薄れるだろうけど、しかし互いを理解し合うには十分な年月を過ごしたはずだし、私も彼の事はよく理解しているつもりだった。けれどそれは私の独り善がりに過ぎなくて、本当は彼の事を何も知らなかったのかもしれない。
何が食べたいとか、どこへ行きたいとか、とにかくそういった行動の決定は二人でしたかった。けれど全ての決定権が私にあるのなら、私の話など聞いてもくれないなら、手を繋ぐことすら忘れられるのであれば、一緒に居る意味なんて無い。二人である必要がない。
『私に飽きたのかな、って思って。でもそれを聞くのは怖くて』
『それは断じてありませぬ!』
『哀牙さんならそう言ってくれると思いました』
でも、彼の否定が心に響かない程、今の私の心はどうしようもないくらいに死んでいる。
どこへ行くにも一人である事が増えた。そしてどこに行っても他の恋人ばかりに目がいってしまうようになった。それが嫌だった。上から照り付ける太陽の眩しさにも腹が立って睨みつけるように顔をあげると何とも綺麗な青空が広がっていて、ふと考えてしまった――どうして今、私の隣には哀牙さんが居ないんだろう、と。
そう思った瞬間、自分は哀牙さんに愛されていないのではないか、という不安が津波のように襲いかかり、膝から崩れ落ちそうになった。
『今までは一人でも平気だった。でも、それは違った。私は"平気なフリ"をしていただけだった、と気付いてしまったんです』
知ってはいけない真実を知ってしまったという、まさしくその感覚だった。そして、それは私にとって残酷な真理だった。
『哀牙さんと居られて楽しかったです』
『……名前殿は我が嫌いになったのですか?』
『いいえ好きです。でももう無理です。私はこれ以上、自分の心を押し殺すことなんて出来ない』
『しかし我は、』
『無理なんですッ!』
拒絶の意しか見せない私の声は無様に裏返り、そして震えていた。私の決意の眼差しに、哀牙さんは今度こそ口を噤んだ。私と居る時は必ず白い手袋を外してくれる彼の素手は、交差させた指をそのまま内側へ折り畳んだ。
哀牙さんはこちらが悲しくなるくらい、眉間に皺を寄せて歯を食い縛る。
やめてよ、哀牙さん。
そんな顔……しないでよ。
……原因は、あなたなのに……。
『……ごめんなさい』
これ以上話す事は無くなり、お札を一枚置いて席を立つ。哀牙さんはピクリと反応したが、私を引き留めるでもなく無言で見送った。
ガラス張りのドアに手を掛けると、今にも泣き出しそうな、目も当てられないくらい酷い顔の自分が居た。それを見て、私の目に溜まっていた涙がいよいよ我慢できずに溢れ出し、ドアを力任せに開けて外へ飛び出した。
本当は好きなのに。愛しているのに。ずっと傍に居たかったのに。最後まであなたの隣で過ごしていたかったのに。私が生まれてきたのはあなたに逢う為だと信じて疑わなかったのに――私は今まで哀牙さんに本当に愛されていたの? ねえ、こんな終わり方で良いの?
「……良いわけないよっ!」
耳に入ってきた鮮明な声に、昔の夢を見ていたと気付いて目が覚めた。寝言が飛び出てしまうほど、とてもリアルな夢だった。
心臓がどっどっ、と激しく脈を打っている。ベッドから体を起こし、額にぴたりと手を添えて長い溜め息を吐く。瞳にじんわりと浮かぶ水分を指先で拭った。
台所でコップに水を注ぎ、一気に飲み干す。鏡を見ると、夢で見た自分と全く同じ顔をしていて、また大きな溜め息を吐いた。
あの別れの後、見られていたのではないかと思うくらい私はタイミングよく異動になり、他県へ引っ越すことになった。彼との思い出がありすぎるこの街に居るのはとても辛かったから、丁度良かった。急かされるでもなく準備を素早く終えて、私はこの街を去った。
引越し準備中も哀牙さんから着信が来ていたけど怖くて出られなかった。一方的に別れを告げたせいで彼に対して後ろめたさがあり、出れるわけがなかった。何度も震えるスマホを見ては「こんな状態にならなきゃ掛けて来ないんだね」と虚しく笑った。
その内着信が来なくなると、私は哀牙さんのアドレスを消した。同時に私の中の彼がスッと音もなく消えていく気がした。
しばらくの間は食欲もなく、ご飯もまともに食べられなかった。新しい配属先での仕事をしている間は嫌なことを忘れられたけど、帰宅すれば思い出しては泣く日々が続いた。
こんなにあの人を引き摺るなんて、思わなかった。……当たり前だ、五年も一緒に居たのだから。
***
名前殿に別れを告げられたが、やはり我は納得など出来ない。
なんとか彼女の心を取り戻したかった。しかし電話には出てくれず、家へ訪れても常に留守。
何度も聞いた圏外やら電源が入っていないやらの見当違いなアナウンスが、我と名前殿を絶対に繋げさせないと言っているように聞こえ、とても腹立たしかった。
きっと名前殿は今、思い詰めている。数日経てばまた元の彼女に戻ってくれるだろうという淡い期待を、しかし愚かな希望を抱いていた。
数日後、再度彼女の家を尋ねてみた。
門前払いになっても構わない。仕事が忙しいのであれば、帰って来るまで待っていようと思っていた。怒られようと、蔑まれようとも、ただ彼女が我を見てくれればそれで良かった。
だが、我に突きつけられた現実は更なる非情な運命だった。
名前殿の住まいへ到着するも、部屋の表札が見当たらない。嫌な予感がして隣の住人に聞けば、彼女は仕事で遠くへ引っ越したと言う。
時は既に遅く、彼女はもう我の手に届かぬ場所へ行ってしまったのだ。
「名前殿……何故……」
名前殿が我の元を離れてから仕事のミスが増えた。思うように仕事が進まず、依頼人からの不信感も募るようになった。彼女が居なくなっただけで、ここまで自分は駄目になってしまうのかと、ただただ呆れるしかなかった。
夜など到底眠れるわけがなく、適当な本を手に取って目で追うが内容は全く入ってこない。気付けば意識を手放していて、いつの間にか朝を迎えることがほとんどだった。
寝ても覚めても名前殿が頭から離れない。
こんなことになる前に、さっさと彼女を我だけのものにしてしまえば良かった。
名前殿の顔が見たい。
名前殿の声が聞きたい。
名前殿をこの手で抱き締めたい。
「名前殿……名前……」
何故彼女は今、我の隣に居ないのだろう。
在りし日に彼女が感じた孤独感を、今我が感じるなどあまりに自業自得だ。
彼女もずっとこのような寂しさに襲われていたのだろうと思うと、自分をどこまでも戒めねば気が済まなかった。
これは我自身に与えられた罰だと、受け入れるしかなかったのだ。
[
←
|
→
]
Smotherd mate