幕間小咄 九
松永の城、多聞山城にて迎える二度目の春に、光秀殿はやって来た。わざわざ来ずとも呼ばれればそちらへ参りますのにと言うと「近いから良いのですよ」と見慣れた笑みを浮かべる。
一先ず客間へお通しして私と久秀殿と光秀殿で向かい合うと、光秀殿の目付きがぎらりと変わって口を開いた。
「信長様が三河の徳川、越前の朝倉に上洛命令を出していた事はご存知ですね」
それは昨年の一月半ばの事だった。
信長様は京の守りをより固める為に周辺の大名へ上洛命令を出していた。
それに唯一応じなかったのが朝倉家だ。幾度も通告したが全く取り合わなかったらしい。
「織田は朝倉を攻める事になりました。近々出発し、琵琶湖周りで越前へ入ります」
「えっ!? し、しかし光秀殿、朝倉家は……」
「浅井と同盟を組んでおるよな。こりゃ、大変だな〜」
信長様の妹君、お市様と浅井長政殿のご婚姻の際に『朝倉を攻撃しない』という条約が決まった。そうして結ばれた織田と浅井の同盟を、自らぶち壊すというのか。もしくは、浅井がこちらに付くとお考えなのか。
「なぜ信長様はそのような事を……」
「わかりませんが、とにかく一刻を争う事態です。この話はまだ近江の浅井には伝わっておりません。その前に越前へ侵攻し、まずは金ヶ崎を落とすとの事」
私はこの件に関して、もう何も言葉が出なかった。
織田と浅井に挟まれるお市様が可哀想で仕方がない。しかし、お市様は決して弱くない。もしこれを知れば、きっと浅井に付くだろう。その時、信長様はきっとお市様を肉親と言えど……。ああ嫌だ、こんな事は考えたくはないのに、心が止める前に頭が勝手に先走る。
「出来れば私も此処に残りたいのですが、すぐに戻り行軍の準備をしなければなりません。失礼します」
「ならばお見送りだけでもさせて下さい」
光秀殿が立ち上がると同時に私も腰を上げた。その後に続くように久秀殿も立ち、何とも言えない雰囲気のまま3人で廊下を戻る。
城を出ると既に従者が馬を用意していた。光秀殿は馬に跨り、それまでの真剣な顔つきを緩ませて私に微笑みかける。
「名前、私はあなたがどうしているか心配でしたが、元気そうで安心しました」
「光秀殿……。私こそ、お会い出来て嬉しかったです。どうかお気を付けて」
光秀殿の優しい眼差しに、私は心の奥がふんわりと温かくなり、穏やかな気持ちになる。
久しぶりの再会に持ってきた話は不穏ではあるけれど、光秀殿自信は変わらず優しいままで安心する。
「お主ら、な〜に離れて暮らす想い人同士のような会話をしとる。いいからさっさと行かんか光秀。信長様が待っておられるぞ〜?」
そんな空気を読まずに土足で踏み入ってぶち壊してくる久秀殿。想い人だなんてそんなつもりは毛頭ないが、その野次に少しだけ心を乱してしまう。
「久秀殿、名前をお願いします」
「お願いされんでも、ちゃ〜んと面倒見てやるぞ。墓までな〜」
「先に入るのは久秀殿でしょうけどね」
すかさず私がそう言うと、光秀殿と久秀殿が楽しそうに笑った。ほんの一瞬だが、場が和んでほっとする。
久秀殿は歯を見せて笑いながら、私の頭をぽんぽんと撫でてくる。
「安心しろ、化けて出てやるぞ」
「成仏してくださいよ……」
「ふふふ、仲良くやっているようですね。では、私はもう行きます」
「はい、すぐに我々も参ります!」
そして光秀殿は馬を走らせて行ってしまった。
その姿が見えなくなるまで見守ってから私達は城へ戻った。
「恐ろしい事だな、信長は本当に恐ろしい」
「え……?」
久秀殿がそんな事を言うので、私は耳を傾けた。
「上洛命令など、朝倉を攻める為の口実よ」
「まさか、今回の越前侵攻は久秀殿が……!」
それは早計だぞ、と久秀殿が私の言葉を止める。
久秀殿のまとわりつくような視線が私を捉える。まさしく宗矩殿が言っていた『蛇の目』だった。
「朝倉と密に繋がるほど我輩は暇ではない。が、上洛命令に応じぬであろう事はお主も気付いていたろう? つまり、朝倉の運命も全てあの男の手中というわけだ、くっくっく……」
何がおかしいのか、久秀殿は口角を上げて静かに笑った。この男が笑う時は決まって悪いことが起こるのだ。根源は、言わずもがな。
「明日には出発せねばなあ。な、名前?」
「……はい」
共に過ごしていく内に、この人の事が分かったというのは私の思い上がりだった。
やはり底知れぬ不気味な何かを感じる。それはこの乱世をより混沌に陥れる作為的な、"何か"だ。
翌朝、久秀殿の姿はどこにも見当たらなかった。
朝餉を済ませて久通殿に尋ねると、どうやら柳生庄へ向かったとの事。
何も告げずに一人で行ってしまった久秀殿は、私の勘だが、きっとまた何か良からぬことを企んでいるに違いない。
私もすぐに昨夜まとめた荷物を青鳥に乗せ、柳生庄に向かって走り出した。
大和の柳生家に到着すると、既に家の前に宗矩殿が居た。
数刻前に久秀殿がやって来ていたらしい。今回の件を伝えられ、これから多聞山城へ向かうと宗矩殿が言った。
だが、肝心の久秀殿がここに居ない。聞けば馬を走らせて先へ行ってしまったらしい。
どこへ言ったかを尋ねるが、宗矩殿は『城に戻ったんじゃないかなァ?』と答えた。
「んじゃ、名前殿もおじさんと一緒に多聞山城に行こうかァ」
「いえ、私は久秀殿を探さねばなりませんので」
……おかしい。
もし多聞山城へ戻るなら、私が柳生庄へ来る時に鉢合わせているはずだ。それに、宗矩殿もこれから多聞山城へ向かうのであれば2人で共に行けば良かったのに。
今回の戦は迅速に行わなければならないから、道草を食う暇などない。越前侵攻の為、近江の浅井には知られないよう……。
そうか、なるほど。宗矩殿は私の足止めだ。そして久秀殿は近江に向かったのだ。
小少将を焚き付けて本圀寺を攻めてきた時のように、次は浅井と戦を起こさせるつもりだ。
まずい、大変に不味い事態だ。こうしてはいられない。
「すみません! 私は行くべき所がありますので、宗矩殿は先に京へ向かって下さい!」
宗矩殿にそう告げて、私はすぐに再び青鳥に跨って駆け出した。
嫌な予感がする。胸騒ぎがする。久秀殿が私より先に城を出て行ったのはいつだ。時間差はどれくらいだ。今からでも間に合うのか。
いや、とにかく走らなければ。同じ事の繰り返しになる前に。
「……おじさん、やっぱ嘘は苦手だよォ」
私が青鳥を走らせた後の、そんな宗矩殿の小さな呟きは私に届くはずもなかった。
――こんな話がある。
誰にでも親切な心優しき男が、皆から忌み嫌われる怪物と仲良くなったそうな。
その男は怪物にも情が通じると思っていた。
……が、その男は結局、怪物に殺されてしまった。
怪物は所詮……怪物、ということだ――
あれから、どれだけ走り続けただろうか。
後の戦に支障が出るといけないと思い青鳥に気を遣って度々休ませながら、けれど寝る間も惜しんで近江の小谷城へ向かっていた。
その間、二回ほど日は沈み、次に日が昇った所で私は小谷城の城下町までやって来た。
青鳥から降りて手綱を握り、城へ向かって歩みを進める。これでもし久秀殿が見つからなければまさに骨折り損のくたびれ儲けなわけだが、むしろその方がいい。
城門前まで来て、意を決す。
いざ行かんと足を踏み出したところで、前方から私が探していた人物がやって来た。
その人物は私の姿を見るやいなや、驚いた様子で大股で私に近寄ってきた。
「……名前? お主、こんな所で何をしておる」
「それはこちらの台詞です、久秀殿。ここで何をしておられた」
私は怒気のこもった声で問い掛ける。
久秀殿はそんな私の言葉を意にも介さず上機嫌に答える。
「なあに、ただの挨拶よ。……別れの挨拶をな」
「……今から長政殿にお会いします」
久秀殿の横を通り過ぎて行こうとした時、すれ違いざまに腕を掴まれた。
それは絶対的な意志の込められた強い力だった。
「まあ待て。今回の件、誰がどう動こうとも結果は変わらんと思わんか? ん?」
「なら何故あなたは、それを助長するように事を運ぶのです!」
私が声を荒げて問い詰めると、久秀殿は首を傾げながら逆に聞き返してくる。
その一挙一動が癪に障る。そうだ、私はわかっているのだ。この男の根底にある本質を。生きる意味を。
「それがわからんお主でもあるまい。そうだろう?」
「……全てはあなたの運命の為、ですか」
「我輩の事を理解しているな。悪党の心がわかるようになったお主の成長ぶり、嬉しいぞ〜」
共に楽しく過ごした日々が、私の中で音を立てて崩れていく気がした。今では遠い記憶の様な感覚を覚える。
楽しそうに笑う久秀殿の声が、今は耳障りで腹立たしい。やはり私はこの男を理解など出来ていなかった。そして心を許してなどいけなかったのだ。
久秀殿にも、そして自分自身にも腸が煮えくり返る思いだ。
「……くだらない。あなたの運命など、実にくだらない!」
声を張り上げてそう吐き捨てた。久秀殿は口を結んだが、冷たい笑みを浮かべたままだった。
しばらく互いに睨み合っていると控えめな足音が城門の向こう側から近づいて来る。
「名前? もしかして、名前なの?」
鈴の音のような私を呼ぶ声が聞こえ、そちらへ目を向けるとお市様が立っていた。
久秀殿に掴まれた腕がゆるりと開放され、私はお市様の元へ駆け寄った。
「お市様! あの……っ!」
「会いに来てくれたのですね。ありがとう、名前」
ふわりと優しい笑みを浮かべるお市様に心が締め付けられる。
告げるべきか告げないべきか、喉元まで出掛かった言葉の行方に迷っているとお市様が袂から何かを取り出した。
「どうかこれをお兄様に渡して下さい」
「え……?」
お市様が私に差し出したものは藤の花柄の布袋だった。
触れると中には小豆が入っているのか固く膨らみ、その袋の両端が紐で結われていた。
「……お市様は、よろしいのですか」
「私は、長政様の妻。愛する人の為に生きると決めたのです」
「お市様……」
「名前、どうかあなたもお元気で」
お市様の全てを受け止め覚悟を決めたような顔を見ると、私は何も言えなくなった。
私如きがこの御方の決意を滲ませて良いわけがない。兄妹と言えど、いつかはこうなる日が来るとわかっていたはずだ。
「お市様も、どうかお達者で」
これが最後にならないで欲しい。
そう願いながら笑顔を取り繕って、私は久秀殿と共に小谷城を後にした。
それぞれの馬に跨り、私は久秀殿と別の方角を向いた。
「名前、どこへ行く? 多聞山城はこっちだぞ、兵を連れて行かねば」
「私はこれから京へ行きます」
「それはならん。許さんぞ」
久秀殿は私のすぐ隣に馬を寄せ鐙(あぶみ)に体重を掛けて立ち上がり、私の腰に腕を回しながら帯を掴んだ。そのまま強い力で引っ張られると自分の体が宙に浮くのを感じ、気付けば久秀殿の馬の上に乗せられていた。横向き気味に座らされ、背中に面した久秀殿が私を逃さないように捕まえている。
「は、離して下さい! この悪党! 謀反者! 裏切り者!」
「何とでも言え。耳に心地良いくらいだ」
余裕たっぷりに低い声で言い返されて、私は悔しさでいっぱいになった。きっと今はどんな罵り言葉も、この男にとっては賞賛にすぎない。私は久秀殿に体を向けて思いっ切り胸ぐらを掴む。それでも眉一つ動かさぬ久秀殿に私は怒りを感じた。ああ、この男が憎たらしくて仕方がない。
「どうしてこんな事をッ! 私はやっと、あなたの事を仲間だと……!」
「くっくっく、お主も悪に染まるか」
久秀殿は肩を揺らしてくつくつと笑う。
青鳥の手綱までもいつの間にかその手に収め、久秀殿は我が城へと馬を走らせる。
私の言葉など届いていない。聞いてもくれない。そんな今の久秀殿が、私の知っている久秀殿とはまるで別人の様で、怒りの感情の後にやってきたのは深い悲しみだった。
「私までも裏切ったのですか……?」
一縷の望みに縋るかのように自然と吐き出された言葉。その声色は、自分の耳には悲しげで泣きそうにも聞こえた。微かに震えていたようだった。
「思うは勝手よ。さりとて我輩は己の運命に従うまでだ」
どうか否定して欲しかった。けれど今の久秀殿は私が欲しい言葉をくれるわけがなく、とうとう私は抗う力を失った。久秀殿の胸元を掴んだ手から力が抜け、静かに自分の元へ戻っていく。
久秀殿の瞳には目の前の私が映っているのに、彼は私など見ていなかったのだ。
(20161105)
[
←
|
title
|
→
]
Smotherd mate