金ヶ崎撤退戦 一
私は久秀殿に無理矢理多聞山城へ連れ戻され、そこには京へ行っていると思われた宗矩殿が私達を待っていた。
いつ抜け出して京へ報告に行こうかと目論んではいたが、久秀殿と宗矩殿が執拗に私を見張り続けるもので、支度をしている間も行軍している間も全くの隙がなかった。
永禄十三年四月二十日。
京へ到着すると既に織田軍は遠征準備を終えていた。そのまま北へ向かい数日掛けて越前の朝倉領へ入る。織田の軍勢が攻めてきたという報を受けた朝倉は、我々が入って来た南側一体を放棄した。そのお陰で織田軍は天筒山城を、翌日には金ヶ崎城を落とす事に成功した。後はさらに北部で軍勢を構える朝倉を討ち取れば越前は織田のものだ。
こんなにも首尾良く物事が運ぶなんて流石信長様率いる織田軍だ、と何も知らない頃の私だったらそう思っていただろう。
今の私はどうにも窮屈で仕方がなかった。
結局、私は未だに信長様にも光秀殿にも、久秀殿のしでかした事を報告出来ずに居た。多聞山城を出てから常に久秀殿もしくは宗矩殿が私を監視しているせいだ。目付役が目付けされるとは全くもって洒落にならない。
行軍中は常に久秀殿と宗矩殿に挟まれて動けるわけもなく、交戦が始まる前に伝えようとするも宗矩殿が私を捕まえて離さない。光秀殿に話しかけようとしても久秀殿に止められる。それ以外の誰かに話し掛けることすら禁じられた。戦中にとも思ったが、兵を置いて持ち場を勝手に離れるなんて論外だ。
そして数日が経ち、四月二八日。
落とした金ヶ崎城の一室で、私は宗矩殿に見張られながら静かに武具の手入れをしていた。今の久秀殿や宗矩殿は私にとって恐怖の対象でしかなかった。まるで目を光らせて獲物を見張る狼だ。だからといって不甲斐ない自分を悔いる事しか出来ないのは不本意極まりない。
本当にこれで良いのか。何も出来ないまま朝倉と浅井に挟撃され、万が一信長様が討ち取られるような事があったら、それこそ私は死ぬほど後悔をすることになるのではないか。
せめてお市様から受け取った小豆袋だけでも信長様に渡したいのだが、妹から兄へ贈る陣中見舞いすら許されないだろう。
ならば、と私は決意をし、すっくと立ち上がって宗矩殿に背を向けながら襖に手を掛けた。
「どこへ行くのかなァ?」
勿論、宗矩殿は制すように問い掛ける。
「厠です。付いて来ないで下さい」
「そう言われても、廊下までは付いて行かないと松永殿に叱られるんでねェ」
「はあ、そうですか」
ここ数日の間、どこへ行くにも何をするにも久秀殿か宗矩殿が付いて来るので1人になれる時間がないというのも単純に嫌だった。
さて、ここからどうやって宗矩殿を撒くか……と言っても、実は何度も失敗している。走って逃げるのは普通に無理だった。他の者と私の服を交換して入れ替わるも見抜かれ、皆が寝ている時間帯にこっそり出ようとしても捕まった。まるで忍び殺しだ。一体いつ寝ているのだ、彼らは。
「名前。……と、柳生殿ではありませんか」
「光秀殿!」
廊下で光秀殿とすれ違った。数日ぶりに言葉を交わした気がする。偶然とは言えまたとない好機だ。この場を逃せばもう機会は無いだろうと、私はやけくそ気味に小豆袋を取り出した。
「これ、私から光秀殿への贈り物です!」
「私に?」
「名前殿、それは駄目だよォ」
当然のように宗矩殿から「待った」の声が掛かる。しかし私は1度出したその袋を再びしまうつもりは無い。
宗矩殿が私の手から小豆袋を奪おうとゆるりと腕を伸ばすがそれを避ける。
「ただの小豆袋ですよ。あなた程の剣豪が怖がるものではありません」
「別に怖がっているわけじゃないよォ。ただ、怪しいものは何であれきちんと確認すべきだと思ってねェ」
「純粋な乙女心を疑うなんて、宗矩殿もいけずな方ですね」
「じゃあその乙女心、おじさんにも見せてくれないかなァ」
「構いませんよ」
見た目は何の変哲もないただの小豆袋だが、大事なのは中身ではない。きっとこの小豆袋自体が何かの意味を成しているのだ。私も全てを理解しているわけではないが、とりあえずこの場をやり過ごす為に袋を縛っていた紐を外した。
中には暗い赤紫色の小豆がたくさん入っているだけ。それを確認した宗矩殿は「これが名前殿の乙女心ねェ」とからかうように言った。その話を引っ張るのはやめて頂きたい。
私は再び袋の両端を結んで光秀殿に手渡す。
「小豆と言うと信長様の好物ですね」
「そうなのですか! ではぜひ、ご一緒に召し上がって下さい。どうぞ宜しくお願いします」
控えめに念を押し、私は宗矩殿の腕を抱くようにして引っ張りながらその場を去って行く。私に出来ることはやったつもりだ。後は光秀殿に任せるしかない。
だが、さっきから妙に静かな宗矩殿が少し怖い。もし勘付かれていたら、何かされるかもしれない。不安で胸がざわつくが、うまく行けば私の思い通りだと考えると自然と口端が歪む。久秀殿も、信長様に対して裏切りを行った時はこういう気持ちで溢れるのだろうか。
「……名前殿」
名前を呼ばれ、瞬間的に心臓が跳ね上がる。
ど、どうしよう。やはりまさか、私の思惑は筒抜けだったのか。
「結構大胆なんだねェ、そんなにおじさんの腕に押し付けちゃって」
「え? あ……っ!」
そう言われて、私は宗矩殿の腕にだいぶ密着していた事に気付いた。慌てて宗矩殿の腕を離し、私はすたすたと早足で宗矩殿と距離を置いた。
「いいんだよォ、いくらでも引っ付いて」
「結構です!」
無意識とはいえ、はしたない事をしてしまい、私は深く恥じ入った。
けれど気付いていない様子の宗矩殿に、改めて心が軽くなるような感じがした。
その夜、金ヶ崎城を拠点として次なる目的地へ向かう為に陣幕を張り、中では私や光秀殿、秀吉殿、援軍に来てくれた家康殿らと今後の策を練っている時だった。
一人の兵が急いで我々の中に飛び込んで来て、息もつかせずに報告する。
「申し上げます! 浅井長政様、寝返り!」
「莫迦な! 長政殿が寝返ったなど!」
その報に光秀殿が驚愕の声を上げた。秀吉殿や家康殿も驚きを隠せない様子。
ついにこの時が来てしまった。久秀殿の思惑通りだ。きっとこの件を知ってあの男は悦んでいるに違いない。
慌てふためく彼らに背中を向けて静かに陣幕を出ていく。するとすぐそこには久秀殿が立っていた。盗み聞きなんて厭らしい男だ。
「くっくっく、信長はどう出るかな〜?」
したり顔で指先をすり合わせながら誰に話すでもなく、しかし私に聞こえるように呟いた。
私は口も利きたくないと思いすぐに通り過ぎようとした。が、宵闇に紛れるような漆黒の甲冑に身を包む信長様が、音もなく現れた。
「なっ……!」
信長様の姿に気付いた久秀殿は肩を揺らして驚き、聞かれていたのではないかと焦りの表情を浮かべる。
「久秀。信長を逃がす任、うぬに命ず」
その命に久秀殿は眉をしかめたが、すぐに返事をして頭を下げた。
信長様は踵を返すも、一、二歩進んだ所で足を止め、背中越しに私に告げた。
「名前。信長は鉛玉とて喰らい尽くす、ぞ」
喉を鳴らして笑いながら放ったその一言で、光秀殿は信長様に小豆袋を渡してくれたのだと確信した。
あの大量の小豆の中に一つ、私は鉄砲玉を忍ばせていた。『食えないやつが紛れ込んでいる』という意味を含ませたつもりだが、信長様にはそれが届いたらしい。そんな主君の屈服を知らない確言に、私は口元に弧をえがいた。
すぐに織田軍は撤退準備を始めた。
先導は久秀殿、殿は光秀殿と秀吉殿が務める。私や家康殿はその中腹で必要に応じて前後を援護する流れとなった。まず私は久秀殿と一緒に信長様の撤退のお供をする。他の家臣の方達は光秀殿達と別所で応戦中だ。
ここから退くには南の朽木領を通らねばならないが、領主の朽木元綱は敵軍にあたる為、無論簡単に通してくれるはずもない。しかし聞けば、久秀殿と朽木は旧知の間柄だという。信長様は殺せと仰っていたが、久秀殿は説得させて欲しいと申し出た。許可が降りたので、私は久秀殿と宗矩殿に付いて行き、敵兵に塞がれている道を切り開いて行く。
「松永殿、信長の方が一枚上手だ。お宅の企みを見抜いた上で許してるんだからねェ」
信長様は遥か後方で見えぬ位置に居るとはいえ、宗矩殿が呼び捨てにしながらそんな事を言い出したので無関係ながらも私の方が肝を冷やす。まあ、久秀殿に言われて私を見張っている時点で彼も使われる人間であり、そちら側の存在なのだろう。
「そ、こ、が気に入らんのよ! 見ておれ、最後には悪が勝〜つ!」
「やれやれ。そ、こ、が信長のお気に入りなんだろうねェ」
"お気に入り"という言葉に久秀殿は憤慨し、良くない方向にやる気を出した。宗矩殿の言う通り、信長様は久秀殿の背こうとする真っ直ぐな姿勢を気に入ってはいるのだろう。なら目付役の私なんていらないじゃないか、好きにしてくれ、と自分の存在意義を見失って少し不貞腐れる。
やがて朽木の陣幕が見えたので気を取り直し、久秀殿が見張りの兵に声を掛けると幕内へ案内された。勝ち気な表情をしている久秀殿はきっと自信があるのだろう。久秀殿と朽木が向かい合い、私と宗矩殿はやや後ろで二人の様子を伺う。
「元綱よ、今の織田の勢いは知っておろう、正に日の出の勢いよ。天筒山も金ヶ崎も手薄とはいえ織田は一日で落とした」
「む、そうだな……」
「数々の戦で勝利を手に入れ、足利義昭を将軍に擁立し、この乱世を治め、いずれは天下を取る御仁だ。その時の甘い汁、吸えぬは損であろうな」
「むむ。そう、だな……」
「だがここで信長様を救えば、お主は未来永劫語り継がれる英雄として名を馳せることが出来る。実に素晴らしい事だ!」
「むむむ。……よし、この元綱、信長殿の道案内を致そう!」
いとも簡単に丸め込まれた朽木はすぐに兵を集めて信長様の下へ向かった。目先の利益に囚われ過ぎじゃないかと少し心配にもなったが、これで信長様の安全が確保出来るのなら都合がいい。
説得というほどの物でもない対話が終わると、久秀殿は私と宗矩殿に向き直った。
「さて、我輩達も共に逃げるぞ。信長が死なぬなら有象無象はどうでもいい」
相変わらず随分とはっきり言い切るものだ。けど今は言い返す気力もない。
陣幕から出て行くと朽木は信長様を迎えている所で、こちらの会話は全く気に留めていない様子だった。
「私は戻って他の方々の撤退援護をします」
「何を言うとる。お主は我輩の目付役ではなかったのか?」
私が久秀殿の目付役であるということは、本人もとうに気付いていただろうと思っていた。だが知っていたならもう少し、"目付けられ役"として大人しくして居て欲しかったものだ。
「私は信長様に仕える身。今私に与えられた使命はあなたのおもりではありません。まあ、ここで妙な気を起こせば織田のみならず全てがあなたの敵となり得るでしょうがね」
「多勢に無勢、それはおじさんもキツいなァ」
宗矩殿が無勢側になる気満々な発言をするので久秀殿が肘で小突く。そんな二人の掛け合いを無視し、外で待っていた我が隊共々来た道を戻り始める。
私の名を呼ぶ宗矩殿の声が背後から聞こえるが、その後すぐに久秀殿が宗矩殿を制する。
「ここならそう敵は来れまいし、簡単に首を取られる名前ではない。それに今のあやつは我輩の言う事など微塵も聞かぬだろうしな。我輩達は信長様に続くぞ」
「松永殿、寂しそうだねェ。反抗期の娘を持つ親の気分なのかい?」
「そら寂しいに決まっておろう。新婚気分の我輩達が乱世に引き裂かれるなんて辛いっ!」
「へェ、名前殿とはどこまで進んで……」
私は人差し指と中指で帯から苦無を抜き取り、右脇の木の上に投げ飛ばした。短い悲鳴と共に重量のある何かが地面に落ちる音がした。傍の兵に確認をしてもらうと、どうやら朝倉側の忍びである事が判明。
朽木に匿って貰えたとは言え、この撤退を見越していたであろう朝倉は忍びを伏せていたのだろう。私は兵達に既に此処も戦地の一端であると警告し、後処理と周辺の捜索を言い付けた後、再び歩みを進めた。二人の話し声はいつの間にか聞こえなくなっていた。
色々と考えながら足を動かしていると大分戻っていたようで、目前にはお市様と武装した侍女達が迫っていた。秀吉殿はお止めすることが出来なかったのだろうか、それとも上手くかわして来たのだろうか。決意の眼差しで私を睨むお市様は、暗い夜道に均等に置かれた灯籠の柔らかい光で照らされ、兄を殺そうとしていても尚美しく見えた。
私は連れていた兵を横一列に並ぶよう指示を出す。ここから先へは誰も通してはならない。
「名前、そこをどきなさい」
「お市様、それは無理なお願いにございます。あなたは浅井に居ようと信長様の妹君。優しすぎるのです」
あの小豆袋を見て信長様は撤退を決断なされたに違いない。布の柄は藤の花。お市様が好んで頭に飾っているものと同じ種類だ。私からの贈り物だなんて思うわけがない。
「……それでも私は、お兄様を討たねばならぬのです!」
お市様が武器を構えると、周りの侍女達も同じく刀を私に向けた。
***
名前とは正反対の方向へのんびり前進する久秀と宗矩は、周りに誰も人が居ないのを良い事に雑談をしていた。話の内容は言わずもがな、信長と名前についてである。
「しかし信長は行動が早いねェ。撤退を即断即決なんてさァ」
「あの男は悪運が強くて困る。だが確かに早すぎる。宗矩、ちゃんと名前を見張っていたのだろうな」
「勿論、厠まで一緒だよォ」
「なに〜!? 宗矩、どこまで見た! 白状しろ〜答えによっては容赦せんぞ〜!」
衝撃的な一言に久秀は宗矩の胸ぐらを掴んでがくがくと揺さぶった。狼狽する久秀を鎮めながら、宗矩は乱された衣服を整える。
「拙者、松永殿と違って大人だから無理強いはしないんだよォ。それに光秀も居たからねェ」
「光秀? まさか何か話をさせたのではなかろうな?」
「いや大したことは話してなかったよォ。なんか小豆あげてたなァ」
「小豆袋を渡させたのか!?」
それだよ、それ! お主、よくもやってくれちゃったな〜! と久秀が指を差しながら宗矩を責め立てる。
だが未だによくわかっていない様子の宗矩に、やれやれと久秀は小豆袋について教えてやった。
「あれは両端が結ばれていたであろう。我輩が思うに"袋の鼠"って奴よ」
「へェ、そんな意味があったのかァ」
おじさん、物事ははっきり言って欲しい方だからなァ、なんて悠長な感想が出てくるので久秀は頭が痛くなる気がした。その悪気のない言葉に怒る気を削がれ、そして信長が名前に言った言葉にも合点がいった。
「名前め、小豆に鉛玉を仕込んだな。鼠達の中に内通者が居る、とな」
「松永殿ってば、信長だけじゃなく名前殿にもしてやられちゃったみたいだねェ」
宗矩の追撃に久秀が苦々しく呻いた。しかし頭に名前の姿を思い描くと、すぐにいつもの不敵な笑みを顔に浮かべる。
「う〜ん、でも我輩、名前なら許しちゃう!」
久秀は、してやられた事がむしろ嬉しいと言わんばかりだ。言動こそは巫山戯ているものの、宗矩はその言葉に嘘偽りを感じなかった。
「そんな松永殿を信長は許しちゃうんだろうねェ」
「少し黙っておれ宗矩」
わかりやすいくらいに態度を変えた久秀に、宗矩は元より細い目を更に薄くして笑った。
名前の腕を信じてはいるが、それでも気がかりに思うのは親心故か、それとも別の感情故か、当人である久秀にも分からないことが歯痒く感じられた。
(20161111)
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Smotherd mate