金ヶ崎撤退戦 三
高虎殿の猛攻に押されて絶体絶命の私を助けに来てくれたのは、この撤退戦で信長様に先導を任されているはずの久秀殿だった。また厄介者が来たな、と高虎殿は悪態をつく。
「我輩の大事〜な名前を、浅井などに渡すわけないだろう! 無、価、値〜!」
救援に感動したのも束の間、下品な笑い声を上げながら信長様の真似をする久秀殿の方がよっぽど敵に見えた。私を助けに来てくれたのか煽りに来たのか……相変わらずわからないな、この人は。多分後者の方が大きいだろうけど。
色々突っ込みたいところもあるが、今は目の前の高虎殿を倒さねば。戦力が増えたことにより私も気勢が上がり、そしてどこか安心感のようなものも感じていた。
「何人来ようが同じことだ!」
「さてさて〜その気の毒な程の剛直な精神、いつまで保つかな?」
久秀殿の左手にはいつの間にか拾われていた私の獲物が握られており、それを手渡される。感謝を述べて久秀殿と共に高虎殿を迎え撃つ態勢をとる。
「この戦い、長引かせるわけにはいきません!」
「合点承知の助だぜ名前よ、盛大に奴を振ってやれ。『あたしには久秀様という心に決めた想い人が!』となあ〜?」
戦う気はあるのに、久秀殿のせいでいちいち気が抜けてしまう。笑ったら負けだと思っていても、つい口端が上がる。気付けば先程までの手の震えが止まっていた事に気付き、私は刀と脇差を握る手に力を込めた。
高虎殿の土砂降りのような怒涛の突きも、調子を取り戻した今となっては全て見切っていける。一気に距離を詰めてから脇差で敵の刃を止め、もう片方の刀で下から斬り付ける。惜しくも紙一重で避けられ、私の刀は高虎殿の毛先だけを切断し空を薙いだ。
避けた先では久秀殿が待ってましたと言わんばかりに首めがけて鎌を振り下ろす。私の脇差とぶつかっていた刀でそれを弾いた直後、私は足払いを掛けた。
「くっ!」
手応えはあった。高虎殿は体勢を崩して背中から倒れ込む。跨るようにして高虎殿の頭のすぐ横に刃を突き刺した。刀に体重を掛けながら大きく肩で息をし、額から伝う汗と、肩や腕から流れる血が零れ落ち、地面を染め上げた。
「高虎殿、退いて下さい!」
「……やむを得ん」
形勢逆転だ。高虎殿はようやく観念し、私がどけるとゆっくりと体を起こして立ち上がった。刀を鞘に収めて光秀殿と交戦中の大谷吉継に声を掛ける。
「吉継、ここは一旦退却だ!」
「流れを引き込めなかったか、高虎。わかった、ここは引き下がろう」
二人の敵将は兵を連れて自軍へと駆け戻って行った。
光秀殿の元へ寄ると、彼は先導役であるはずの久秀殿が何故ここに居るのかと驚愕して叱りつけようとしたが、お陰で私は助かったのだと諌める。
「そうだぞ光秀。我輩が来なければ危うく名前が攫われるところだったんだぞ?」
だが浅井に囚われた姫君を救い出す我輩というのも悪党らしくて格好良いかもしれんな〜とほくそ笑む。もちろん、信長様の側を離れた久秀殿だって悪いはずなのに、私の事を持ち出された光秀殿は何も言い返せなくなってしまった。光秀殿とて別の相手で手一杯だったから仕方ない上、私の力が及ばなかったが故に起こった事態だ。私を置いて強引に言いくるめられる光秀殿が少し可哀想になったので、今度は彼に助け舟を出す。
「光秀殿、良い言葉があります。『それはそれ、これはこれ』です」
その言葉に光秀殿は成程、と表情を少し明るくした。結果的に私は敵に攫われたわけでもないし、久秀殿の救援によって敵を追い払えた。そこだけは感謝している。
「待て待て! 名前、お主はどっちの味方なんだ〜?」
「どちらでもありません。私は私の味方です」
「全く、本当に思い通りにいかぬおなごだな〜。だが、そこが良い……」
うっとりと言う久秀殿に軽く鳥肌が立つ。この気色悪い空気を打破して欲しいと思った時、ちょうど伝令兵がやって来て私達に意気揚々と報告をした。
「伝令! 織田軍の重臣方、撤退完了!」
「実に結構! このまま我輩達も脱落せずに逃げ切るぞ〜!」
どうやら秀吉殿達の方も上手くいったらしい。これで後は我々が撤退すれば良いだけだ。兵達を集めて、もと来た道を戻るように朽木領へ走り出した。
浅い傷だったのだろう、腕から流れる血は空気に触れてすでに止まっていた。私は久秀殿だけに聞こえるように小さく耳打ちする。
「別にそこまでして見張らずとも、もう誰にも言いませんよ。これは私の責ですから」
久秀殿は何か返そうと思ったのかすぐに振り向いたが私はその場を離れた。この男は私を助けに来てくれたのではない。私が光秀殿や他の方々に、この戦の裏にある真実を伝えさせない為に来ただけなんだ。きっとそうだ、そうに違いない。
自分の胸に微かに浮かんだ期待を鎮めるように、私は何度も己に言い聞かせた。
我々の背後に付いてくる兵が何やら騒がしい。どうしたのだろうかと光秀殿と顔を見合わせていると、恐怖の色を帯びた声が次々と耳に入ってきた。
「浅井軍だ! そこまで来ているぞ!」
「何という速さだ……このままでは追い付かれてしまう!」
あれだけ大勢の敵を払ってきたというのに、まだ粘り強く追い掛けて来ているというのか。次々と入ってくる情報によると、私達の後ろに居るのは長政殿の軍と朝倉義景の軍らしい。まさかの総大将のお出ましに血の気が引いた。
敵兵達を掻き分けながら先頭へ飛び出してきたのは長政殿。こんな前衛に出てくるなんてどうかしているが、それほどまでにこの戦に命を懸けているのだろう。堂々と前に出てきた長政殿に敬意を表するように、光秀殿も後方へ戻り、長政殿の前へ出て行った。
「長政殿! 何故、友誼の柱を折られたのです!」
「……すまない、光秀殿。一時とはいえ、そなたとの友誼は楽しいものだった」
もう長政殿は決意されたのだ。悪が罪を吹き込むよりもとうの昔に。敵として向かい合う二人を、私は見たくなかった。本能寺の桜の下で交わした盃は今となっては戻らぬ夢。戦というのはいつも非情だ。
辺り一面を飲み込む真剣な空気をぶち壊すように、じゃりじゃりと足音を立てながら久秀殿は二人に近付いた。
「心優しき男の怪物退治、始まり始まり〜!」
楽しそうにおどけて笑う原因の一欠片に、長政殿は武器を抜いて迷うことなく槍の切っ先を向けた。
「手始めに怪物の手先を倒すとしよう!」
「その決意に揺るぎなし。実に結構!」
久秀殿も己の獲物を構える。『怪物の手先』って、久秀殿が一番恨まれているではないか。そう呼ばれて嬉しそうにする彼も彼だ。揺るぐどころか決意を固めさせるような存在だ。
「ふざけたこと言ってないでとっとと逃げますよ! 光秀殿も!」
私は久秀殿の首根っこを掴んで後ろへ引っ張る。ぐえっ、とうめき声を上げながら私に引きずられ、文句を言いながら体勢を整えて一緒に走り始めた。光秀殿は心ここにあらずだったが、大声で名前を呼んでやっと気付き、長政殿に背を向けた。
光秀殿が改めて皆の先導を切る。長政殿は一瞬迷いを見せたが、やはり決意は固く、私達の後を再び追い始めた。
「よいのか〜? このまま逃げ切れるとは思えんがなあ」
「あなたの撒いた種から育った悪の芽は自分で摘んで頂きたいところですがね!」
「我輩、芽吹いた悪は大樹に育てたいもの」
懸命に走りながらも舌を噛まぬよう久秀殿に悪態をつく。しかし彼は決して悪びれない。謝らない。開き直る。ただ嬉しそうに笑っている。この状況を愉しんでいる。
「ここで討たれるのも我輩の運命か〜? 悪は悪を倒してこそ、より大きな悪になるものよな〜!」
くつくつと喉を鳴らす音が、やがて大きな笑い声になる。ああ、なんて耳障りだろうか。ふつふつと怒りが沸いてくる。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、久秀殿はだらだらと悪について語り続ける。そんな話に興味はない。
隣を走る久秀殿とぶつかりそうなくらい近付き、左手で胸ぐらを思い切り掴み上げる。そして右腕を振り上げ――久秀殿の頬を力の限り叩いた。小気味のいい乾いた音が響く。久秀殿だけでなく、光秀殿や周りの兵も突然の出来事に驚いて目をパチクリさせた。
「そんなに死にたくば死ねばいい! でもそれは、己の運命を取り返してからじゃないんですか!?」
声を張り上げて久秀殿に問いただす。私の右手がじんじんと痺れている理由を証明するかのように、久秀殿の頬は赤くなっていた。
……やってしまった、が、今更後悔などしない。私とてそろそろ堪忍袋の尾がブチ切れそうなのだ。いや、すでに切れていたのかもしれない。
「光秀殿、先をお願いします」
「ですが名前……」
「どうか何卒、お願い致します!」
私は光秀殿に思い切り頭を下げて懇願した。光秀殿は私の切迫した空気を察し、兵を連れて行ってくれた。長政殿の軍が追いつくまでまだ少しある。今のうちに彼の寝ぼけた理想論を打ち砕いてしまわねば。
久秀殿はようやく自分がこんな小娘に引っ叩かれた事に気付いたようで、ゆっくりと私の右手首を掴んだ。次第に力が込められて、血管が圧迫されるような感覚を味わう。
「……私は、こんな所で死ぬわけにはいかない。あなたと心中なんて御免ですね!」
「言いたいことはそれで十分か? んん?」
低い声で脅迫するように問い掛ける。じろりと、蛇の睨みのような鋭い目付きが私を捉えた。右手に持った武器を持ち上げたので、斬られると思ったが、それを地面に突き刺した。背筋に這い寄る恐怖に屈すれば再びこの男の思う壺だ。私はまだ道筋を示さねばならない。
「ここで死ぬつもりならば、何故先ほど私を助けたのですか! これからも、私と共に生きて戦おうと思ったからではないのですか!?」
「何と傲慢な娘よ、思い上がりも甚だしい」
そう言うと、久秀殿は私の腕を引っ張って自分の元へと寄せる。急な力に抗えずそのまま久秀殿の胸元へ入るかと思ったが、反対側の手で私の首元を押さえ付けた。親指で顎を持ち上げられ、少し呼吸が苦しくなる。顔を歪めた私を見た久秀殿は悦に浸りながら唇を動かし言葉を紡ぐ。
「助けた理由など決まっておろう。お主の運命は既に我輩のものだ」
結局それだ。そんな言い方をして誤魔化す男だ。運命なんてどうせ、気の持ちようで誰の物にでもなる。
私はあなたの言葉を信じない。今のあなたの言葉は、きっと何もかもがまがい物なのだ。
久秀殿の手を振りほどき、距離を取る。
「……行きましょう、急がねば本当にここで果てる事になります」
「お主と我輩は、運命を共にする宿命よ」
ようやく久秀殿は私と共に退却し始めてくれた。我儘で傲慢なのはどちらだろうか。それでいて素直でない、困った人だ。
しかし、本当に逃げ切れるかどうかわからなくなってきた。この浅井・朝倉の軍勢を私達2人だけでどう切り抜ければ良いものか。
絶望的な状況の中、わき道から現れたのは秀吉殿と半兵衛殿、そして二人に連れられた大勢の織田軍だった。
「名前さん、無事だった?」
「まーだこんな所におったんか! って、松永殿もおるんか!? まあ、ここはわしらに任せえ、はよ逃げろ!」
「秀吉殿と半兵衛殿! 救援感謝いたします!」
秀吉殿が私達の為に馬を用意してくれたので、厚意に甘えて私と久秀殿はそれぞれ馬に乗る。私と久秀殿の目的はすでに定まった。今はこの場を離れ、とにかく馬を走らせて信長様に追い付くことだ。
私は二人に礼を告げ、久秀殿と共に主君の元へ向かった。
やがて光秀殿達に追い付き、そのまま先に行かせて頂く。久秀殿は信長様の先導を任されているのだから、兎にも角にもさっさと信長様の元へ戻らねばいけないのだ。
私は内心とても焦っているのだが、久秀殿はそんな風は一切ない。それどころかムッとしている。頬をはたいた事に対して怒っているのだろうか。私も先刻はついカッとなってやってしまったが、今は大分気持ちも収まっている。……一応、声を掛けてみるかな。
「どうしたんですか、そんなふくれっ面で」
「……お主が『此度の件は私の責ですゥ〜』なんて甘ちゃんな事を言うものでな、我輩もムキになっちゃったのよ」
「それ、私の真似ですか?」
「我輩を世界の悪に仕立てぬお主は、いい子ちゃんで偽善者で実に愚かだ」
褒められているのか貶されているのかわからないが、多分両方だろう。どうやら叩いたことに対してはもう怒っていないようだ。
久秀殿があんなにも躍起になっていたのは、私が彼の『悪』を無視するような物言いをしたからだ、という事がわかった。私にとっては『そんな事』でも、彼にとっては『重大な事』だったのだろう。
「私がお嫌いになりましたか?」
「いいや、思い通りに行かぬからこそやり甲斐も出る。どうだ? この諦めない精神は。我輩の悪もまだまだ捨てたものではなかろう?」
後ろ向きに前向き、ではなく前向きに前向きだ、この人は。それくらいが久秀殿らしいなんて思う私も、随分毒されてきたと思う。フッと息を漏らして笑みをこぼす。
「ええ、本当にしつこくて素晴らしいと思います」
「お主も言うな〜」
ようやく訪れた安堵のひと時。今は少しくらい、彼に心を開くことを許してくれないだろうか。他人と衝突するのは精神をとても消耗するのだ。
二頭の馬が、穏やかで波のない海のような気持ちに浸る武士を乗せて走る。もうじき信長様の元まで到達できるだろう。
金ヶ崎の夜明けは近い。
(20161231)
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Smotherd mate