姉川の戦い
元亀元年六月。
金ヶ崎から撤退した後、我々織田軍は美濃の岐阜城へ戻り軍勢を整えて小谷城に向けて出発した。
美濃と近江の境にある浅井の長比(たけくらべ)城、苅安(かりやす)城の守備を任された将はこちらに寝返り、難なく先へ進むことが出来た。
そうして辿り着いた地、姉川にて戦いの火蓋は切って落とされた。
織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の間に流れるのは大きな川。そこより後方の位置に織田は本陣を敷いた。
信長様は徳川軍に前線へ出るよう指示し、私達には本陣にて待機との命を下された。
隣の光秀殿にそっと耳打ちをする。
「徳川軍のみに戦わせては、徳川の兵の反感を買うのではないでしょうか」
「……ですが、今は信長様に従うほかありません」
光秀殿も同じ思いでいたようだが、やはり逆らえるわけもない。もちろん私だってそうだ。
今はただ、徳川軍がどのように攻め入り、朝倉を打ち倒すのか見届ける事しか出来ない。
その後、何度か来た伝令によると徳川軍は朝倉軍を押しているらしい。その報に安心するが、油断は禁物だ。
すると久秀殿が私に近付いて、お見通しと言わんばかりに口を開く。
「うずうずしとるな〜、名前よ」
「久秀殿……そんな事ありません」
「いいや、我輩にはわかる。隠したって無駄だぞ」
つんつん、と頬をつつかれる。浅井との戦によって緊張が走るこの空気の中でよくふざけていられるものだ。目を細めて睨み付けるが、全く気にせず指先で尚もつつき続ける久秀殿。
「柔らかいのう〜」
「やめてください!」
つんつんつんつんと、飽きずに触ってくる。いい加減にして欲しいと手を払いのけて制すると、ようやく久秀殿は緩い表情から真剣な顔つきになった。
「お主の気もわからんではないがな〜。耐える、待つ、それも戦よ」
「承知ております」
急に真面目な事を言い出すものだから少し戸惑う。しかし、やはり久秀殿が居ると緊張感がほぐれるのを感じる。こういう人材も中には必要なのかもしれないと改めて思う……が、あまり認めたくはない。
その時、ふっと何かの気配を感じた。織田の者ではない、確かに敵の殺意のようなものだった。
「久秀殿、私は少し見回りに参ります」
「そうやって信長の背後に廻り、首を討ち取る気だな〜? 我輩も付いて行っちゃうゾ!」
「違いますよ、久秀殿じゃあるまいし」
久秀殿と共に陣幕の外に出て周辺を見回す。辺りには織田の見張りの兵くらいしか居ないが、どこかに忍びが潜んでいるかもしれない。万が一という事もある、もう少し探してみよう。
周辺を見回っていると上から人が降ってきた。やはり忍びが――と構えを取るが、よく見ると忍び装束に身を包んだ男が肩に人を抱えていた。敵かと思ったが、いつの間にか私が陣幕内で感じた殺気はなくなっていた。
面で顔が隠れているので表情はわからない。切れ長の目が私と久秀殿を視界に捉え、口を開いた。
「貴殿ら、織田の者であろう」
「はい。苗字名前と申します。あなたは?」
「徳川の影。任を遮る朝倉の忍び、闇に滅した」
忍びの男性は肩に抱えていた人間を無遠慮に地に落とした。すでに息はない。やはり敵方の忍びが本陣近くに居たらしく、それをこの"徳川の影"と名乗った人物が討ち取ったらしい。
もしかしてこの御仁が徳川の忍びの服部半蔵殿だろうか。以前、家康殿から少し聞いたことがある。何とも腕の立つ忍びで重宝していると。
「半蔵殿、私もこれより前へ……」
「影に助けは要らぬ。巣へ戻るが良い」
そう言って、半蔵殿は姿を消してしまった。その見事な手際、感嘆せざるを得ない。半蔵殿が居なくなった後も棒立ちで前を見つめていると久秀殿に呼ばれた。
「どうした名前? もう良いだろう、戻るぞ」
「格好いい……」
自然と口から感想がこぼれた。
気配を消し、周りが気付かぬ内に目的を果たす……忍びのその俊敏さには惚れ惚れする。
「やはり忍びは格好いいですね。憧れます!」
「我輩はくノ一の方が好きだぞ〜房中術とか。のう名前よ、くノ一にならんか?」
「さ、本陣へ戻りましょうか。報告せねば」
「見事にかわしたな〜」
信長様の下へ戻り、朝倉の忍びが付近に現れたが徳川の忍びの手によって事なきを得たと報告。徳川軍の活躍に信長様は満足そうな表情を浮かべた。
それからも徳川軍の猛攻は続き、ついに朝倉軍を追い詰めた。対する浅井軍の動きは特に無い。
すると見張りの兵が一人の敵方の将を連れてきた。手には布袋を持ち、なにか決意をしたような表情をしている。その将は信長様の前に跪き、頭を下げながら申し述べる。
「浅井家家臣、遠藤直経! これより信長様にお味方したく馳せ参じました。まず手土産として、浅井の将の首をお持ち――」
「その者の首を、撥ねよ」
その将が言い終える前に言い放ち、信長様は背を向けて去って行った。遠藤直経は顔面を蒼白させながら刀の柄を握り、信長様に襲いかかる。しかしその刃先すら届くこともなく、すぐさま周りの兵に斬り伏せられてしまった。
浅井がこのような苦し紛れの策を放つなど、最早こちらに勝利の流れが来ているにも等しい。続いてやってきた伝令によると、浅井軍がいよいよ織田本陣に向けて動き始めたとのこと。
「くっく、是非も無し。浅井を喰らい尽くせ!」
今まで陣幕から一歩も動かなかった信長様が遂に我々に進軍を命じた。信長様は浅井の出方を伺っていたのだろう。
中間に流れる大きな川を戦場に、あちこちで斬り合いが始まる。自分の隊の指揮をとりながら私も前線へ出ようとすると、後ろから肩を掴まれた。
「待て待て、お主が出るほどではない。こちらが優勢なのは目に見えておるだろ?」
「ですがここで徹底的に叩いておけば、今後浅井と戦う事は無くなるやもしれません」
「意外と容赦ないのな、お主も。良いぞ〜」
うんうん、と頷く久秀殿。しかし私の意見には賛同しかねるようだ。
「だがあの心優しき男も信長も簡単ではない。どちらかが潰れるまでこの戦は終わらぬのよ」
ああそうだ。きっとそうだろう。どちらかが死ぬまで終わらない。戦とはそういうものだ。
長政殿は信長様を倒し、己の天下を夢見ている。信長様は天下を武で布き、この乱世を治めようとされている。
決して相容れるわけがない。だから、私がすべき事はただ一つ。
「なればこそ、信長様の天下を望むまでです!」
私は刀を握って久秀殿の制止を振り切り、命を賭して戦う兵卒の中に混ざっていった。
「本当に命知らずよのう。……むっふふ、面倒の見がいがあるものよ!」
そう言いながら久秀殿も私の背を追い掛けた。
***
織田・徳川連合軍の猛攻により、ついに浅井・朝倉連合軍は撤退を始めた。姉川には無数の兵の亡骸がそこかしこに倒れている。綺麗に澄んだ川も、今では夕焼けと血で赤く染まっていた。
姉川での戦はようやく終わりを迎え、私は川の中心で呆然と佇んでいた。まさしく疲労困憊だ。折れた刀に付いた血が川の流れと共に下流へ流れていくのを、ただ見守る事しか出来なかった。
ざぶざぶと水をかき分けてやってきたのは光秀殿。彼へ顔を向けるが、何も言葉が出てこない。……虚しさだけが、心を占める。
「名前、頑張りましたね」
「…………」
「さあ、戻りましょう。ずっと川に入ったままでは風邪を引きますよ」
「……はい……」
光秀殿に手を引かれて共に陸地へ上がった。水を吸って重くなった着物が私の足取りを邪魔する。
まだ終わりではない。何も終わってなどいない。全てが終わるまで戦うのが、この乱世に生まれた者の宿命だ。けれど浅井との戦は、何故こうも虚無感ばかりが募るのだろうか。
長時間に渡った戦により織田軍は疲弊。追撃はしない事になった。姉川での戦を終えた後、最後に浅井領の横山城を手土産とばかりに落として、信長様はその城を秀吉殿に与えた。
織田は岐阜へ、徳川は三河へ。それぞれの軍が帰城しようと支度をしていると、一人の綺麗な女性が私に近付いて話しかけてきた。
「あなたが名前さん……ですか?」
「はい、いかにも」
「私は本多忠勝が娘、稲と申します」
徳川軍の本多忠勝殿……確か、この戦で大変ご活躍されたそうで、信長様に「日本の張飛」とか言われていた。
「して、稲姫様。私に何か御用でしょうか?」
「大した用ではないのですが……浅井の若武者があなたを探していたようだったので」
思い当たる人物は……居ると言えば居る。
「もしかして、全身青い感じの……」
「そうです! 藤堂高虎と名乗っていました!」
やっぱりか。そう言えば見当たらないと思っていたけど、まさか徳川軍とぶつかっていたとは。
「名前さんはあの方と恋仲なのですか?」
「ぶっ!」
稲姫様の予想外の言葉に盛大に吹き出す。何をどう見たらそうなるのか。
「あの男は執拗に名前さんの事を言っていました。もし想い人と望まぬ戦をされているなら……」
「ま、待って下さい! 違います、とんでもない誤解です!」
高虎殿……相も変わらず真っ直ぐなのは良い事だけど、変に誤解を与えるような真似はやめて欲しい。多分、彼の性格上、大真面目なのだろうけど。
「そうだぞ。此奴は我輩のモノだもの〜」
背後からぬっと久秀殿が現れて私の肩を抱いた。ああ、なんかまたややこしい人がやってきた。
稲姫様は軽々しく私に触れてくる久秀殿を見て頬を紅潮させ、指を突きつける。
「ふ、不埒です! 名前さんから離れて下さい!」
「んん〜? 名前は嫌がっとらんぞ〜?」
「もう慣れました……嫌ですけど」
「嫌がってるではありませんか!」
すると稲姫様の大声に反応して徳川の人達が続々と集まってきた。ええと、確かあの女性は井伊直虎殿で……い、稲姫様の父君に、先程の徳川の影の半蔵殿まで!
「どうかしましたか? あっ、私なんかが来ちゃってすみません!」
「何を騒いでいる、稲」
「影、推参」
錚々たる顔ぶれが募り、物々しさを感じる。な、なんか大ごとになってしまったような……。
とにかくこの場を離れようと、私は「織田の出発準備が整ったようなので失礼します」と会釈をして久秀殿を連れて行った。
徳川の将が目の前に勢揃いなんて恐れ多すぎる。とてもじゃないが私の小さな心臓では耐えられない。
「……嬉しそうだの〜」
隣を歩く久秀殿の声が耳に入り、私は自分の顔が少し緩んでいる事に気付いた。先程まではあんなにも陰鬱な気持ちでいっぱいだったのに、他の方と他愛ない話をしただけでもう気持ちは前を向いている。
高虎殿とは敵対してしまったけど、真っ直ぐな心は変わらないままだ。徳川の方達も、今回の戦で織田への不信感を強めたものだとばかり思っていたが、そんな風はあまり感じなくて安心した。
そんな些細な人との交わりが、凄惨な戦によって折れかけていた私の心を持ち直し、支えてくれたのだった。
(20170308)
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Smotherd mate