2:ふたりぼっち

お館さまは、物腰やわらかで、気立てのよい方だった。
非学生で将来性もないおれたちのことを快く受け入れて、ほかの者たちとも分け隔てなく接してくれた。
先生とは古くから家どうしの親交があり、これまでも何度か先生の留守中に書生を預かることがあったと聞いて、内心ほっとした。
身体が不自由で目がほとんど見えないため、おれは文字起こしや書類の清書を手伝うことになった。


彼女とおれにはひと部屋ずつ私室が与えられた。
部屋は続き間になっていて、普段は結霜硝子と色硝子のはめ込まれた荒間格子のふすまで仕切られているが、あちらからもこちらからも自由に開けられるようになっていた。

「冨岡さん」

こんこんという軽い音に振り向けば、彼女のしなやかなかたちが靄のようにおぼろげにふすまへ浮かび上がっているのが見える。

「どうした」
「ひとりでさみしかったから」
「家が恋しいのか」
「すこし」

彼女は薄手のネグリジェに着替えていた。裾から白いつま先がのぞいている。
細身のロングドレスのようなその寝間着は、しばらく離れてしまう彼女のためにと先生が贈ってくれた輸入品らしい。
天女のはごろものようにうつくしく、日の下に出ればすべて透けて見えてしまいそうだった。彼女の絹のような肌とよく似合っていた。

「ねえ、眠るとき以外はここを開けていてもいいかしら」
「異性には警戒心をもって接するんだな。そんなことでは先生の心労も絶えないだろう」
「冨岡さん以外にはこんなこと言ったりしないもの」
「雛鳥の刷り込みと同じだ。偶然近くにいたやつを巻き込む口ぶりはよせ」

彼女は持参してきたビスケットを半分に割ると下くちびるにあてがい、次の言葉を口にするか否か、わずかのあいだ悩んだように見えた。

「たくさんの書生さんを見てきましたが、冨岡さんの文字ほどわたしをあたたかく、そしてうっとりとさせるものはありません。わたしは束縛ばかりの窮屈な人生のなかで、どなたをどう思うのか、それだけは自由にしているつもりです」

廊下に面した硝子戸越しに、虫籠窓からの淡いひかりが落ちてくる。
彼女は開け放したままのふすまのむこう、縁側から降り注ぐひかりを背に受けて、しっとりとしたテクスチュアの肌を濡れたようにかがやかせていた。

「わたし、お返事をいただいていません」

「……作業中は閉じる」

「着替えのときも」

「朝もしばらくは開けるな」

「じゃあ、今はよいということ」

ふいに、彼女がおれの膝の上に顔を伏せた。
肩がわずかに揺れている。なにかを押し殺すようなぬるい吐息が太ももをじんわりと熱くする。
住み慣れた家を離れ、愛想のわるいおとことふたりきり、彼女自身とは縁もゆかりもない家にやられてしまう。どれだけこころ細いだろう。
おとこならば抗いようがあったかもしれない。生きるための有効な術が、なにかしらはあったやも。
あるいは生きたいように生きていたならば、先生の手を離れても、今ごろは元気にどこかで、健全に働いていたかもしれない。

肩に触れる。髪の毛がはらはらと畳へ垂れる。
痛いこともおそろしいことも知らぬような、ただあまく、やわらかな髪。
こんなとき、うまいことが言えたらいいと思う。
しかし筆もペンも持たないままでは、感情は整理されないまま混沌と脳のなかをうごめくだけで、なにも、なにも言えないのだ。