3:ひとりとひとつ

冨岡さんがわたしたちの前に現れたのは半年ほど前のことだ。

今まで何人もの書生を見てきた。
作家には変わり者が多かった。十人十色、様々な個性を持つひとたちが次々と現れては去っていった。
冨岡さんはわたしが鱗滝さんのもとで見てきたひとたちのなかで、群を抜いて朴訥とした男性であった。
そして群を抜いて、うつくしい言葉を綴る男性だった。

冨岡さんは色々なものを書いた。
観察力が優れていて、彼の身体の見えないところには、眼玉が十も二十もついているのではないかと疑うほどだった。
たとえばわたしがうつくしい青と思う空を、冨岡さんはもっともっと繊細に、複雑に捉える。
ただの青とは思わないし、うつくしさのわけやそれを構成するもののかたちや様子を、いっぺんに山ほど思い浮かべられる。そしてそれを文字として、うつくしい文字として書き起こす。

冨岡さんの作品は、それがたとえ随筆であろうともなにであろうとも、そこはかとなく幻想的で、わたしはいつもうっとりと夢見るような気持ちに浸ってしまう。
レアリスムには欠けるが、それが彼の瞳でしか諦観することのできない彼だけの世界に眠るうつくしさであり、唯一無二のすぐれた知覚を持つ者であると、鱗滝さんは冨岡さんの才筆を常日ごろ、そういうふうに褒めていた。
わたしには文学のむずかしいことはわからなかったけれど、冨岡さんの書きものがだいすきだから、冨岡さんが褒められるとうれしい気持ちになった。

「冨岡さん」
「お嬢」
「お嬢はいや。みんななまえって呼んでくださります」

冨岡さんがお館さまのところから私室へ戻ってきた。
お館さまのお手伝いが終わると、冨岡さんはいつもすぐに文机に向かう。
鱗滝さんとは頻繁に手紙のやり取りをしているらしい。
机上に置かれた今日の分の手紙に気がついた冨岡さんは、わずかに目を細めて、うれしげな様子だった。
たっぷりと綴られたアドヴァイスを熱心に読む込む姿を見つめるのが、わたしはとてもすきだ。
その強いまなざしが、冨岡さんがただのおとなしい方ではないということを物語っている。
冨岡さんのしずかに沸き立つ雄弁な瞳を盗み見るたび、わたしの鼓動はとくとくと早くなるのだ。
たとえば空のかなたにうっすらとかかる虹を見つけられたときのように、草むらのなかでひそやかに咲くちいさな野花に気がついたときのように。冒険へ出たこどものように。

「閉めないのですか」
「お前の閉めたいときに閉めればいい」
「お邪魔ではないですか」
「邪魔なら閉めてる」
「そうですか」

作業中は戸を閉めてしまうと言っていた冨岡さんが二部屋を分断してしまうのは、実際には就寝時のみであった。
おかげでわたしは随分とこころづよく、さみしい気分のときは冨岡さんになにか読みものを借りることもできたし、筆を滑らせる冨岡さんの横顔を盗み見ることだってできた。
冨岡さんが筆を持っているあいだは、わたしは自分が空気になったような気持ちで、わたしの部屋のほうに置かれたひとり掛けのソファーに座って女性誌を読んだり、綿入れを作ったりした。
この世界で自分が尊重されるべき個人ではなくただの一種の生きものとして存在していることがわたしはいつもかなしいはずなのに、冨岡さんのそばで、言葉を交わすこともなく、体重を持たない透明な存在になったような気持ちでいるのは、不思議ととても心地のよいことだった。

「冨岡さん、わたし、お館さまのはからいで、電話交換手のお仕事を紹介していただくことになったんです。まずはほんの数日から」
「聞いた。よかったな」
「口添えをしてくださったんですか」
「そんなことができる身分じゃない」
「そうですか」

お館さまは熱心な篤志家で、このあたりにも地方にも、たくさんの同志や支援者がいるらしい。
わたしはこのおおきな屋敷で、ただほんのすこしの家事手伝いやをしたり、書生たちの面倒をほんのちょっと見るだけでよかった。
たったそれっぽちの働きで、裕福なくらしが保障されてしまう。
それはなんとも情けなく、申し訳ないことだった。
そして、ずぶずぶにあまやかされて育ったわたしを最後に待つのは、ひとりではまるで生きていけぬという苦い現実を抱いてさまよう地獄である。
なにもかもをまわりに依存して生きていくことのおそろしさは、わたしの周辺の誰とも共有することのできない感情だった。
その事実は、いつもわたしをさみしくさせた。

仕事がしたいと頼み込むと、お館さまはすんなりと請け合ってくれて、わたしが呆気にとられているうちに、そのまますぐ奉公口が決まった。鱗滝さんやほかのひとみたいに難色を示すようなことはすこしもなかった。
それどころか、ぼうっとするわたしに、やさしいひとが多く働きやすいところだと思うと声をかけ、励ましてくれたのだ。
不思議なひとだと思って、わたしはたちまちにお館さまがだいすきになった。


「いつからだ」
「明日にも」
「帰りは迎えに行く」

冨岡さんはわたしのほうを見ないまま、しずかに言った。
わたしはとってもうれしくなって、そのあとすぐに、かなしくなった。

わたしはいつも「女性」という個体にすぎない。
わたしは「わたし」という存在ではなく「女性」という生きものであり、またあるときには「鱗滝さんのたからもの」なのだ。
それは無条件にあいされるための免罪符であるときもあれば、大抵の場合は、無条件に区別され蔑まれるべきという標になるやっかいな肩書であった。
冨岡さんはわたしにやさしくしたのではない。
冨岡さんがわたしを雑に扱えないのは、そうすることで鱗滝さんの弟子であるという身分上、不都合が生じてしまうからだ。
お礼を言い損ねてしまったのに、冨岡さんはもう真面目な面持ちで筆を滑らせている最中だったから、わたしはそのまま、やるせない気持ちのまま口を噤んでいるしかなかった。