花を一輪買った。
ユーストマという、あまり見ない花だった。
八重咲きをする種類で、薄い花びらの、ドレスのようなゆるやかなひだが特徴的だった。
色は白か紫もあったが、黄みがかった桃色のものにした。
受け取った瞬間、菓子にすればよかったと思い、すこしばかり後悔した。
彼女の職場は石造りのモダンなビルヂングのなかだった。
屋根は平たく、たてもの全体が四角いかたちをしていた。
縦長の固定窓が規則的に並んでおり、大仰な正面玄関の上にはちいさなバルコニーが設置されていた。
「冨岡さん」
向かいの商店長屋の軒下に立ってしばらくすると、彼女が大通りの向こう側から小走りでこちらへやってくる。
薄明のなかちらほらと瓦斯等が灯りはじめて、それを合図とするように、町じゅうが夜を迎える支度に取りかかったようだった。
名門校の学徒の群れが下駄を鳴らしながら往来を闊歩して通り過ぎていくさまを、彼女が一瞬目で追ったのがわかった。
「どうだった」
「わたしったら、色々と失敗ばかり」
「最初はそんなものだろう」
「そうでしょうか」
「多分」
彼女は疲れているようにも、興奮しているようにも見えた。瞳の奥が不思議なかがやきに満ちていたけれど、なにかに蓋をされているように、すこし暗く見えた。
今のところ、彼女は働かなくとも生きてゆける。
衣食住は保障されているし、先生からのじゅうぶんな支援もあるはずだ。
現在の彼女の本分は、一応お館さまの女中ということになっている。
紹介したお館さまも、承諾した受け入れ先も、彼女のことは一介の職員としてではなく、ほんの手伝い要員として数えているに違いない。
それは彼女の気を紛らわせるための、ほんのわずかの役には立つのかもしれなかったが、彼女の本来の望みとはまるで別物だった。
彼女もそれを気にしているように見えた。
「わたし、たくさんのことをしたいのよ。でも、遊びたいわけじゃないの」
「……花を買った」
「まあ、すてきです」
「新しい風が吹いた記念に」
彼女はしばらくのあいだ、花を差し出すおれの手へあたたかな手のひらを添えたまま、じっとこちらを見つめていた。
「こどものころはそんなことでは怒られなかったのに、どうしておとなの男女になると、手を繋ぐことがはしたないということになってしまうのでしょうか」
「はあ」
「おとなになったという自覚もないのに、権利ばかり奪われて、こころが追いつかないわ」
どう捉えるべきかわかりかねて、わずかのあいだ、間抜けな顔をしていたかもしれない。
するりと離れた手のひらを追うようにして中指の先を掴んだ。
強い風が彼女の髪や衣服をいたずらに乱した。
「おれたちはどうせこの町じゃ余所者だ。すきなように生きればいい」
この町から、この世界から、おれたちははみ出して生きている。
ここを動かしているたいせつな歯車の数々からは離れたところで、ひっそりと、息を潜めて暮らしている。
彼女はおれの手をゆるく握って、夢見る瞳で夕空を見つめていた。
おのれのどこをまさぐっても見当たらない、やわらかな肉の感触に驚いた。
彼女ははやり歌を口ずさむ。
「いのち短し、恋せよおとめ」
たとえば彼女を自由にしてやりたいと思ったら、どんな行動を取ればいいのかと考えた。
答えは見つからない。
精々すこしの遠回りをしながら帰ることにして、同じように暮れなずむ空を見上げてみた。
二羽の鴉が、濡れた羽を玉虫色にかがやかせて、向こうの屋根からこちらの屋根のあいだを渡っていった。
いのち短し、恋せよおとめ。
ここには誰も、来ぬものを。今日はふたたび、来ぬものを。