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出会ったとき、わたしは社会人二年目で、彼はすでに教師をしていた。
しのぶちゃんはまだ薬科大の学生だった。わたしの職場に彼女の旧友がいたので、一度そのコミュニティの飲み会に誘われたことがあった。義勇さんと会うのはそのときがはじめてだった。


ゆっくりと舐めるように日本酒を飲みながら、ずっと、つまらなさそうにしているのだと思っていた。

そうではなかったのだとわかったのは、宴会も終わりに差し掛かったころで、目の前のおとこのこの言ったことに対して彼がふっと笑ったからだった。
きれいなひと。笑うともっときれい、と思った。

背骨をやさしくまるめて、彼は愉快そうに肩を揺らしていた。低い位置で無造作にくくられた外はねの髪の毛も、一緒になってさわさわと揺れた。
ほのあまいムスクのなかにスエードみたいなこうばしさのある、いいかおりがした。

そしてそのあと、誤解だったわけだけれど彼の不機嫌をずっと気にしていたわたしの視線と彼の視線とがしっかりと合ってしまう。
「やっと笑った」と言ったのはわたしではなくて彼のほうだった。


「ずっと、不安そうにしてた」

「あなたがずっと、その、あまりにもしずかだったから」


名前のついた関係でいたのはほんの半年だったけれど、短い時間のなかのほとんどすべてを、わたしたちは共にすごした。
ごく自然と彼のマンションへ転がり込み、食事も入浴もベットも、仕事以外のなにもかもをほとんど毎日共にした。

すべてを彼に合わせていたというわけではない。
ただ、途中から、あらゆることがわからなくなってきてしまったのだ。

あの映画も、この小説も、そのお酒も、彼がすきだと言ったからすきになったのか、はたまた、もとからすきであったのか、わたしの好みとは一体なんなのか、ふたりの時間のなかで、わたしと彼との境界線はどんどんと曖昧に溶けていった。

彼といると、わたしはわたしがわからなくなった。
外へ出てひとりでいると、自分がどこにもいない気がした。彼といるときだけ、息をしている気がした。

「なまえ」

そうわたしを呼ぶ声を、色濃く覚えている。
けれども、彼が言葉少なに語ってくれたはずのわたしへの愛の言葉というものを、わたしはなぜか思い出すことができない。それはきっと、彼の呟く理由のすべてに納得していなかったからである。


最後の夜、どうしてもセックスがしたいと思った。
それが一生忘れられなくなる傷になるとしても、抱いてほしかった。
さよならを聞くことは耐えられなかったけれど、最後にささやかなおわかれの儀式がほしかった。

「なまえ、どうした」
「……わからない」
「なまえ」
「わからなくなっちゃったの……」
「なまえ、あいしてる」

そのあと、どうしてなのかと聞いていれば、わたしのどこがどうあなたを満足させられていたのか理解しようとしていれば、わたしは翌朝に出てゆくことをやめていただろうか。
わからない。
結局、泣いて泣いてとまらなくなり、セックスどころではなくなって、わたしたちは抱きあったまま眠った。その腕をほどいて家を出ることは、とてつもなく苦しかった。


しのぶちゃんはよくわたしたちを見て「お似合い」だと言ったけれど、わたしはいつも、その言葉の違和感に押し潰されてしまいそうな気持ちでいた。

彼のことをあいしていた。苦しくなるほど。
そして苦しくて、せつなくて、逃げ出したのだ。
なんの不足もなかった。不足のなさすぎる生活は、わたしの価値をどんどんと下げていった。
わたしのなかは彼のすべてで満ちていて、わたし自身の居場所というものは、いつしか身体じゅうのどこにもなくなってしまっていたのである。



久しぶりに触れた彼の身体は、彼を失ってから町じゅうのどこを探しても見つからなかった、わたしのだいすきなかおりのままだった。
いちばん似ているのは雨上がりのにおいだったから、雨の上がる気配を感じるとき、わたしはいつも泣いていた。

彼のもとへ戻ることは、たやすいのかもしれなかった。
しかしそうしてしまえば、彼のことも自分のこともだめにしてしまうのだという深い確信が、わたしにはあった。

ベッドから出るとき、頬にくちびるを押し当てたくなった。まぶたにも、首筋にも、同じようにそうしたくなった。
できなかったのは、泣いてしまって彼を起こしてしまう気がしたから。
おわかれを実感する行為は自分を追いつめるだけで、だからわたしは、なにごともなかったかのように、すこし出かけるだけというふうを装って、もう二度と触れることもないと思っていた玄関ドアをそうっと押し開けると、できるだけよどみのない足取りで吹き曝しの廊下を歩いた。
ヒールの音がこつこつとさみしく響いた。雨上がりのにおいがした。