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わたしの腕を取るその熱が、義勇さんのものではないということを、わたしはすぐに肌で感じ分けることができた。
このあたたかさ、このかたさ、この加減は、義勇さんがもたらすものとはまったく違う。
わたしはいつまでもこうして、世の中のものを、義勇さんとそれ以外とに分けて考えて生きていくのだろうか。

引かれるままに振り返る。わたしを必死の形相で捕まえていたのは、しのぶちゃんだった。
彼女の立ち上がった前髪の菖蒲色の毛先が、乱れてまぶたにかかっていた。


行きつけの純喫茶の窓際に席を取って向かい合い、しのぶちゃんは頭を抱えながら、しきりに深いため息をついていた。
義勇さんに会ってしまったことは不可抗力でわざとでないということを伝えると、彼女はほとんど唸り声のようなため息をまたひとつ吐き出して、そこからわたしは悪さをしたちいさなこどものごとく、最終電車の間際まで、さんざ叱られた。

しのぶちゃんの取りなしで、この週末に義勇さんときちんと話し合いをすることになった。
立ち会うと言ってくれたけれど、ふたりで会うことに決めた。これは胸のなかでのみ決意したことだけれど、これで最後にするのだとも。

できるはずなのだ。現にわたしたちは半年間会わないままでいたし、それでもなんとか、息をし続けていた。かろうじてでも、不格好でも、生きていた。


場所は義勇さんのマンションになった。かつてふたりでくらした空間に足を踏み入れるのはとてもつらい。
しかし、本来避けてはいけなかったはずの痛みを今受け入れなければならないという事実は、苦しくも道理にかなっていて、わたしはこれにあまんじて準ずるほかなかった。

ちいさなダイニングテーブルの一輪挿しに、きれいなアーティフィシャルフラワーが飾られていた。ピンクのガーベラだ。よくよく見ると生花でないとわかる。
わたしの置いていった花瓶に、誰が飾ったの。そう口に出したかったけれど、答えは聞きたくないから、やめにした。

義勇さんはいつも通りの落ち着き払った面持ちでいた。触れると冷たそうで、やっぱり、冷たかった。
このテーブルの窮屈さは、わたしたちが気まぐれに触れあうのに、いつもちょうどよかった。


「どうして急にいなくなった。あんな一方的に」


むかしの思い出話からはじめるでもなく、今日の天気のことなどの差しさわりのない話をするでもない、単刀直入な言葉だった。

目をそらして、キッチンのほうを見た。
わたしのマグカップが、義勇さんのカップのとなりにそのまま置かれている。
あたかもわたしがつい先ほどまでいたかのような痕跡が、この家のそこらじゅうに散らばっている。食器棚にも、冷蔵庫の扉にも、キッチンむこうのシャンプードレッサーにも。


「あなたをだめにしてしまうと思ったから」


とてもちいさな声しか出なかった。震えて、かすれて、ただの連続した音のようだった。
義勇さんが眉根を寄せる。

このどうしようもなく愚かな理由を吐ききったとき、わたしと義勇さんはほんとうに、終わってしまう。
さようならと言われないことや理由をすべて明かさないことは、いつまでもこっそりと義勇さんと繋がっていられるという気になれる、おまもりのようなものだった。
逃げ出したのはわたしなのに、わたしは義勇さんとのすべてを失ってしまうことも、いやだった。


「際限なくあまえて、あまやかされて、なにも与えられないまま搾取し続けることがこわかった。いつか吸い尽くしてしまって、あなたがなくなってしまいそうで、わたしはできていたこともできなくなってしまいそうで、自立からどんどん離れていくようで、こわかった」


冷蔵庫の扉には、わたしの走り書きのレシピが貼られたままになっている。濡れた手で触った痕跡がある。


「あなたがいないと生きていけないのだと思い知らされるたび感じる重たさが、そっくりそのまま、あなたの感じているわたしへの息苦しさだと思うとつらかった」

「ずっと、不安だったのか」

「うん」

「自分だけだと思ってたのか」

「うん」

言わなければいけないことを言いきって、あとは頷くだけの気力しかなかった。
よそ見をする力もなかった。くったりとうな垂れていると、涙が出た。


「本や映画を見たときの感想。なにげなく口にする言葉。おいしいものを食べたときの顔。うつくしいものにこころが動かされたときのまなざし。眠たいときの体温。笑顔の、こころの、言葉の、豊かなところ。おれが笑うとき、いちばんしあわせそうな顔をするところ」

「……義勇さん」

「お前がおれを思うより、きっとおおきな気持ちで、おれはお前をあいしてる」


泣き虫なところも、案外強情なところも、と義勇さんはしずかに言い添えた。
気持ちを伝えたかったけれど、声は震えた喉でちぎれて、わたしは濡れた息を吐きながら、口だけをそっと動かした。あいしてる。

テーブルに手をついて、義勇さんがぐっと身を乗り出す。ダイニングチェアがフローリングを擦る、鈍重な音がする。
義勇さんの手のひらに、そっと手を添える。
ガーベラはわたしが最後に飾った花だった。色はピンクだった。どうして忘れていたのだろう。