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義勇さんが帰ってきて、わたしたちは玄関ですばやくキスをする。
言い切れなかった「おかえりなさい」が、くちびるのあいだでやわらかく溶ける。くぐもった笑い声も、義勇さんの頬や首やダウンジャケットから立ちのぼる冷気も、ぬるい吐息も、わたしたちのあいだに漂うすべてが、密やかなクレヴァスへ落ちてゆく。

義勇さんはわたしを荷物のように持ち上げると、そのままリビングへと運び、ソファの上におろす。わたしはソファの上に立ち、またキスをねだった。

上着をハンガーに掛けながら、義勇さんは、あ、とちいさく声を上げる。

「チョコレート」
「チョコレート?」
「生徒からもらった」

そう言いながら、義勇さんは、赤い包み紙のチョコレートを三つポケットから取り出し、食卓テーブルへ無造作に置いた。
おおきめの消しゴムのような長方形のウエハースチョコレートは、大手メーカーのもので、まんなかで割れるようになっている。

「メッセージが書いてある」
「どうした」
「裏にメッセージが書いてあるの」

脱衣所で手を洗い、ついでバスタブへお湯を張りだしたので、一度目は聞こえなかったみたいだ。ハンドタオルで手を拭いて、義勇さんはテーブル脇に立つわたしの腰を抱く。
ハンドソープの清潔なかおりがする。

個包装されたチョコレートのパッケージの裏面には、まるく大胆な文字で、ひとつには電話番号、あとのふたつには「先生おつかれさまです」「先生だいすき」とそれぞれメッセージが書かれてあった。

「大胆」
「……まいった」
「揺れちゃう?」
「まさか」


バスタブを満たす白っぽいすみれ色のお湯に浸かりながら、わたしはずっと、うわの空だった。
かまどベーカリーで会った女生徒の顔が、脳裏に浮かんで離れない。
恋をするおんなの顔だった。
義勇さんは、彼女からのアプローチに、どう応じるのだろう。
どう処理をするのだろう。
彼女の好奇心を、濡れた視線を、慕情を、サインペンでつづられた電話番号を。

「チョコレートをくれたのはあの子ですか」

一応問いかけじみた言葉を選んではみたが、しかし、内心ほとんど確信しているので、わたしはせつない気持ちで、義勇さんが頷くのを待った。

「心配しなくていい」
「……うん」

心配しなくていい、とは、突き詰めるとつまり、心配してはいけない、ということだろうか。
すくなくともわたしは、心配する余地を奪われたようなここちだった。嫉妬することはおろかであると、牽制されているような。

近づいてくる義勇さんの瞳を、わたしはまっすぐに見つめたままでいた。
キスをするとき、義勇さんはあまり目を閉じない。ごまかされるようでせつなく、ささやかな抵抗のつもりだったが、おおきな手のひらで覆われて、キスはそのまま難なくなされた。

「心配ない」

もう一度深く、しずかに呟かれた言葉が、胸に重く沁みてゆく。呪いのようだと思った。
背骨から仙骨をなぞってみたのは、ゆるやかにはじまった情事の熱を煽るためではなく、どこか、わたししか触れられないところと、その硬さを確かめたかったからだ。

女生徒は二年で、来月修学旅行に行くのだと知った。
義勇さんも引率教師として行くことになっている。