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面倒なことこの上なかったが、致しかたなしに電話をかける。ツーコール目で繋がったのは、冨岡の端末から発信したからに違いなかった。

「まあ、それはすみません。すぐに向かいます」
「どのくらいかかる」
「タクシーで、十分ほどで行かれると思います。近くなったら不死川先生の携帯へ連絡しますね」

まあ、というそのひと言が、実に所帯じみていて、まるで、彼女ではなく、妻というふうな感じがして、癪だった。

いいおんなだと思う。
無論、彼女の存在をしっかりと認識したときには、すでに彼女は冨岡にとろとろのめろめろだったため、どうこうしたいと思ったことは一度もない。ないが、しかし、幸福そうに寄り添うふたりを見ると、やりきれない気持ちになるときがある。
配られるほどのしあわせを抱えて、ふたりで生きている。
非の打ちどころのない、かんぺきなかたち。
どこか不完全なところを見つけて叩きたくなるのは、おどろくほど明白な嫉妬であった。


伊黒が顔を上げたので振り返ると、若干ばつの悪そうにしてはいるが、いつも通りの涼しい顔をして、冨岡が立っていた。寒そうに背中をまるめている。

「よォ、酔っぱらい」
「立ち上がったら急に来た」
「雑魚だな」
「寝不足でなれけば、伊黒よりは飲める」
「みょうじ、もうすぐ着くってよ」
「呼んだのか」
「野郎とタクシーなんざ乗りたくねェよ」
「寒い」

冨岡がおれの隣に腰を下ろす。同時に反対側へ伊黒が掛けたので、気色の悪いことに、男ふたりに挟まれるかたちになる。ああだのこうだのと言い合っていても、男同士の友情なんていうのも悪くないものだと内心思ってしまうのは、くやしくも、事実であった。たぶんふたりも同じだ。
ただ違うのは、ふたりの衣服や風に吹き上げられた襟足からは、時折、花や熟れたくだもののようなフェミニンなかおりがするという点である。おんなと生きている。それも、彼らにとって、極上の。

「すみません、お待たせしました」

彼女はタクシーを路傍に待たせて、こちらまで駆け足でやって来た。
吐く息が白い。

「ごめん、回復した」
「よかった、心配したんですよ」
「一瞬酔ったが、もう平気だ」
「めずらしいわ」

最後の言葉に、冨岡は答えなかった。
ただすこし困ったように眉尻を下げ、自然なしぐさで胸に寄り添う彼女のつむじに鼻を寄せただけだった。
彼女は瞳を閉じて、冨岡の着る薄手のダウンジャケットに額を擦りつけている。ありあまる愛情をもって飼い慣らされた、犬猫のように。

冨岡になにか、飲みたくなる理由でもあったのだろうか。アルコールにまかせて思考を放り投げたいなにか。追われることや追うことから逃げたくなる、なにか。
このふたりにも、どこか不完全なところがあるのだろうか。満ち足りないときが。


おれと伊黒にぺこぺこと頭を下げる彼女からは、冨岡からよく、しかし密やかにかおる、あまいにおいがした。毛先がすこし、濡れていた。

「不死川先生、伊黒先生、ありがとうございます。近々、またうちへいらしてください。お礼も兼ねて、お食事でも」

ふたりが乗り込んだタクシーは、信号待ちですぐに停車した。
車内はちょうど街灯に照らされてあかるく、彼女が冨岡に寄りかかっているのが見えた。

もう一軒行くかという伊黒の誘いを快諾した。
伊黒とは反りが合う。むかしから。
そう、むかしから。