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長い抱擁のあと、送り出してくれた彼女は、いつもどおりのやわらかな笑みを浮かべていた。

毎年同じだった行き先が、今回から変わることになった。彼女とは来たことのない土地だ、と思った。
自宅のほうは雨が降っていたが、こちらはよく晴れていた。
南の離島は、ひどく暑い。

「キスマ」
「はあ」
「キスマ。口もとのラメ。袖と胸にファンデーション」

例の女生徒が呪文のように呟いた。いちおう、まわりへ聞こえないように気遣ってくれているふうだった。

「意外。冨岡先生もあのひとも、そういうことしなさそうだし、先生は笑わないひとだと思ってたし、恋愛とは無縁だと思ってたし」

「プライベートを詮索されるのはすきじゃない。それに、おれはおまえの思うようなおとこでもない」

「知りたいと思うことって、わるいこと?ずっとがまんしてたのに、あの日あのひとといるところを見たら、先生も恋愛するんだってわかっちゃった。わかったら、気持ちを止められなくなっちゃった。わたしだって、どうしたらいいのか、わかんないの」

背の高いがじゅまるの幹と木根が、ぐずぐずと絡まって、要塞のごとく聳え立っていた。
木々の葉の隙間から薄いひかりが差し込んで、やわらかい土に水玉のもようを作っている。
街中ではあまり感じなかったが、森のなかは大分湿度が高かった。湿った土や草木の、深いかおりがする。

なまえは、この景色を見てなんというだろうか。木々も、苔や花も岩も空も、見たことのない鳥も、潮風で劣化して赤茶色に朽ちたてものも、そのかたちも、彼女はきっと、うつくしいと言うだろう。
そうして、うんと目を細めて笑い、きっとキスをしたがる。胸にひたと寄り添って、すき、と言う。
会いたいと思った。
彼女でなくては、だめなのだ。
肌へ、こころへ、やわらかくなじむ、やさしさのかたち。たましいのかたち。

「教師生徒でなくても、万が一恋人と別れることがあっても、おまえのことは選べない。班へ戻れ」

「納得できない」

「おれが彼女でないと、だめだからだ。審美眼を磨き、ものごとの善悪や他人の本質をきちんと見抜けるおとなになれ。そうすれば、自分に必要なものがおのずとわかるようになる。おれは、おまえにとっていいおとなでも、いいおとこでもない」

「呆れた。自分たちばっかり高潔だと思ってるんだわ。手に負えない」

彼女はほとんど聞き取れないくらいの早口でそう言って、短いスカートをひるがえし、集団のなかへと戻っていった。制服の群れになじんで、すぐに見失ってしまう。

存外、的確な言葉であった。
自分たちばかり高潔。
彼女との結びつきは特別であると、おれは確かに、そう思っている。誰も手出しのできない、誰もたどり着けないサンクチュアリであると、確かに。

「なんでおまえみたいなのが受けるんだろうなァ」

「不死川。いつから聞いていた」

「たぶんはじめっから」

「趣味がわるい」

「その言葉、そのまま返すぜ。みょうじみたいなやつ、おっかなくて選べねェよ。あんなににこにこなんでもかんでも許されたら、逆に責められてる気になっちまう」

手に余る、と低く呟いて、不死川もまた、生徒たちの群れへ歩いていった。すこし遅れて、おれもそのあとを追った。
彼なりの、最上級の気遣いであるとわかった。
例の女生徒はもうどこにいるのか──或いはもうここにはいないのかも──わからなかった。

夜、打ち合わせを終えたらすぐに電話をしようと思った。
やさしい恋人の声を、無性に聞きたかった。


夜のにおいが違った。
深く、複雑で、潮のかおりも、土のかおりも、緑のかおりもした。

受話器のボタンをタップしてから、短い連続音、続いてコールが鳴る。鳴り、そしてたったの二度で止み、驚きとよろこびにはずんだ彼女の声がすぐに聞こえた。

「義勇さん?」

「おつかれ」
「おつかれさまです。どうしたんですか」
「声が聞きたいと思った。なにしてる?」
「お風呂を沸かしているところ。うれしい。とっても」

彼女の笑ううしろで、どうどうと水の流れる音がする。
こちらは夜の見廻りと軽い打ち合わせが終わり、やっと落ち着いたところであった。
窓を開けると湿っぽい夜のにおいが流れ込んで来た。エアコンの動いていない部屋よりもすこしぬるめの外気が、ゆっくりと流れ込む。
若いやつらのはしゃぐ声が、遠くに聞こえた。

ぬるく、気だるい感じのする夜だ。女生徒の告白があり、疲れているせいかもしれなかった。
疲れた身体へ、彼女の気配があたたかく沁みてゆく。

「例の生徒のことだが、ちゃんと断ったよ」

そう告げると、空気がすうっと変わるのがわかった。受話器越しに、彼女の緊張が伝わってくるようだった。

「……そうだったのね。そう。彼女、だいじょうぶなの?」

「たぶん。キレてたが。憎んでくれるなら、それがいちばんいい。ああいうタイプの若者は、怒りをいいエネルギーに変えていける」

「よかった。ちょっと待っててください、お風呂がわいたの」

「ハンズフリーにして続けて」

彼女はちいさく、うん、と呟いた。
蛇口のハンドルをひねる音が聞こえる。
彼女の持たせてくれたハーブティーの、よいかおりがする。
やがて、彼女が衣服を脱ぐ、乾いた衣擦れの音がしたがしかし、おれたちはふたりともしばらく口を開かなかった。
先に話し出したのは彼女だった。

「たとえば、雷がこわいとするでしょう。雷の鳴る夜、恋人がそばにいてくれたら、きっと幸福になるわ。でも、それはほんのつかの間のことなの。すぐにわたしは、次に雷の鳴る日がこわくなってしまって、そのことばかり、考えてしまうんです。なぐさめても、なぐさめても、終わらないわたしの恐怖に、恋人がいつか疲れてしまうんじゃないかって思って、また、こわくなるんです」

「おれにとっては、そういう夜を重ねるうちに、恋人が恐怖を隠すようになってしまうことが、おそろしい。そばにいても、じゅうぶんに守ってやれなくなることが」

頑丈にかけた鍵を無理にはずすことが、はたしてただしいのかどうか。隠した傷に触れることが、彼女を救うことになるのか否か。
それが彼女のこころの奥底であったとしても、彼女の傷が自分の手の届かない場所へ行ってしまうのは、大変悔しいことである。

「おれは、おまえの思うよりずっと、嫉妬深いよ」

受話器を通して、やわらかい水音が聞こえる。彼女のすきな入浴剤のかおりが思い出される。重たく、あまったるいかおり。肌を滑るその水の、ぬるい温度まで。
窓の外からは、しずかな波の音が聞こえた。風のほとんどない、停滞するぬるい外気と、侵食される室内の空気。

「また電話する」

「うん、おやすみなさい」

「おやすみ。あいしてる」

「あいしています、義勇さん。ゆっくり身体を休めてね」

バルコニーへ出ると、無数の星がまたたいていた。
砂浜は、闇夜のなかでもわかるくらい、絶対的な白色をしていた。
星はそのうつくしさをカメラでとらえることがかなわなかったため、月あかりとたてものから溢れるひかりに照らされた浜辺の写真を撮り、彼女へ一枚送った。
うんと、やさしくしてやりたい。
誰かを守ることも、傷つけることも、うんとたやすくなった世界のなかで、うんと。限りある時間のそのほとんどを使って。

ふと、自分たちだけ高潔だと思って、という、かの女生徒の言葉が思い出された。
なまえの愛も、やさしさも、それにくるまれた愛のかたちも、高潔と言わずに、なんと呼べばいい。
めぐりめぐる運命のなかで、ふたたび結ばれたことを。やっと掴み取った幸福。その事実を。