雨の降る、暗い日だった。近ごろはよく雨が降る。
恋人が家をあけて二日目になる。わたしは、昨夜の義勇さんとの会話を、一日じゅう思い出していた。
わたしの醜い気持ちを抑圧することが、結果、義勇さんの気持ちをも抑圧することになっていたのだと思い知らされた夜。
星の降る夜から、厚い雲の垂れ込めるグレイの夜への、やさしいシグナル。捨て身の、シグナル。
義勇さんの愛がどれほどわたしを満たそうと、彼の前に絶え間なく現れる若い誘惑を恐れずに済む日などは来ない。
すでにとろとろにあまやかされている身分であるというのに、わたしの果てのない不安や嫉妬がやむことはない。
それらは、わたしの身体のなかで、唯一、義勇さんの触れられないところからあふれてくる。
窓硝子の外側を、雨水がすだれのようにずるずると伝ってゆく。わたしのもやつきは、ちょうどこのような感じである。はっきりと見えているのに、内側からは拭えない。
夜が来て、分断されていた世界の繋がる音がする。
正直になってみようと思った。正直になれるまじないを義勇さんがかけてくれたのだから、わたしはそれに応じるべきなのだと。
「こんばんは、義勇さん」
「おつかれ。なにしてた」
「電話が来るのを待っていたの。義勇さんのこと、考えながら」
義勇さんの声が、かすかなホワイトノイズと共に聞こえてくる。
「義勇さんが、ほかのおんなのこに取られちゃったらいやだって、考えてた。たくさんの愛に囲まれて生きていてほしいのに、そう思う反面、義勇さんが誘惑されることをよしと思えない、この矛盾した気持ちを、どう処理したらよいのか、わからなくて」
先生。義勇先生。
わたしがもう呼べない名前で、義勇さんを呼ぶひとがいる。わたしが失ったものを持っている、若いひとびと。
「おれもだよ。毎日、多くのものごとと出会い、広い世界で知見を得てほしい。おれだけに囚われずに、そのゆたかな感性で様々のものを見つめ、そしておれの元へ帰ってきてほしい。しかし、嫉妬もすれば、独占欲もある。おまえが分別のある賢いおとなだということを差し引いても、その気持ちが消えることはない」
わたし、なにを見ても、なにを知っても、どこへも行かないわ。あなたをあいしているし。
つい言いかけたが、寸前で飲んだ。
そういう問題ではないということを、痛いほど知っているからだ。
「しかし、そういうコントロールのきかない不便な感情と共存していくことが恋愛なのかと思えば、あまんじて抱えていきたいと感じられたよ。自分の劣情も、もちろん、おまえのぶんの、様々な感情も」
「いけない気持ちではないと、言ってくれるの?」
「おまえさえ納得できるなら」
これをひとは、共依存というだろうか。あきれる、と笑うだろうか。
それでもやはり、わたしは、このひとと一緒にいることを、いつだって選んでいたい。
「義勇さん、やっぱりわたし、義勇さんがだいすき」
「うん」
窓の外は相変わらずの豪雨だ。
年じゅう使っているサマーブランケットを背中からかぶると、義勇さんのかおりに抱きしめられているようなここちになった。
このかおりに慣れて、見失うことのないように、と願う。
「ひとりで勝手に、自分をきらいにならないでほしい」
会いたい、と告げると、義勇さんからも同じ言葉が帰ってきた。
電話が苦手なはずの恋人からのラブコールは、わたしを泣きたいほどの幸福で満たすのにじゅうぶんすぎるほど絶大なパワーで、心臓を撫でた。
身体じゅうにどうっとやわいお湯が流れ込み、わたしの核はそのまんなかでぷかぷかと漂っている。瞳を閉じて、はだかのまま身を任せ、ただ、漂っている。
「義勇さん、ありがとう」
受話器の向こうで、義勇さんのほほえむのがわかった。
「わたしも、たとえ手に負えない劣情に振りまわされたとしても、この愛を選びたい」
できるだけ、たくさんのものとひとを、あいしたい。
たくさんの経験をしたい。
いってらっしゃいとほほえんで送り出したい。片時も離れたくない。
自由をたのしめるひとでいたい。つねに、愛に支配されていたい。
おかえりなさいと言いたい。わたしが、言いたい。
不安と矛盾の生まれる場所。
そこがどこなのかを、知っている気がする。
しとどと降る雨のなか、こんこんと降る雪のなか、真夜中。義勇さんのいない家を、わたしは知っている。
吹けば消えるような幸福を、胸を押しつぶす罪悪感を抱えながら守っていた。
奪われないようにと願っていた。それが罪だとしても、みんなの願いに背くとしても、この幸福のそこなわれることがないようにと。
ふたりきりだった。ふたりきりで精一杯だった。
徐々に広がる世界で、たくさんのひとのやさしさに触れた。しあわせだった。
しかし、いざというときにわたしひとりで持ち出せるものは、持ち得る幸福のなかの、ほんのひと握りだった。あらかじめ、順位を定めておかなければならなかった。
義勇さん。義勇さんの幸福。義勇さんの居場所。この世界。みんなの願い。わたしのいのち。
そばにいて。目の届くところに置いて。守らせて。置いていかないで。
あなたも、この愛も、わたしが守るから。
今ならそれが、できるから。
「ありがとう、なまえ」
ふたりでしあわせになりたいのだ。
手を離さないでと、あまえたい。
身の丈にあわない望みかもしれないけれど。
今はただ、会いたい。