残花

夏のなごりが肌に重たくまとわりつく。首筋を伝う一筋の汗が、ぶ厚い黒の詰襟にじんわりと染みこむのがわかった。
連日の酷暑は、まるで夏という季節がときの流れのなかに置き去りにされてしまうことを惜しんでいるかのようだった。

彼女はこの暑さのなか、とろりと瞳を潤ませ、顎の下を手の甲でしきりに押さえながらも、軽々とした足取りでおれのいくらか前を歩いていた。

地平線のかなたが陽炎で歪み、重たい波のようにゆらめいている。
すべてを燃やし尽くすような熱気にさらされた彼女の白い足の輪郭も、さざめく水面のように波打っていた。

「義勇さん」
「あまり先を行くな。はぐれるぞ」
「はぐれっこしないわ。義勇さんがわたしを見失うはずがないもの」

傲慢とも取れるその言葉も、彼女から発せられれば、あまくやさしい響きをしていた。糸のごとく三日月型に細められた瞳は、絶対的な信頼と愛情の色をしており、その上で黒々としたまつげがかがやいている。

ざりざりと、洋靴と雪駄が大小まばらな砂利を踏み固める音がする。重たく倦んだ熱気と白っぽい砂埃が、かんかんと照らされた大地から湯気のように立ちのぼり、あたりを漂っていた。

「転ぶぞ」

ひとり言のように呟いたその言葉に自分自身で戸惑ったのは、彼女へかけるものとして、ふさわしくないものであったからだ。同じ組織に身を置く彼女には、転んでこさえるわずかな擦り傷などは、取るに足らないこと。無用の心配にほかならなかった。


この世界に生きていると、一体なにが救いでなにが報いなのか、段々とその区別がつかなくなってくる。
なにが正しくて、なにが悪なのか。
少なくともおれにとって、生きることは助けられてしまったことへの堪え難い報いであったし、死とはほかでもない、絶対的な救いであった。
生きることが必ずしも救いではない。やさしさが必ずしもやさしさとして届くわけではない。
では、愛にひとは救えるだろうか。


強い砂埃が吹き上がって、視界を眩ませた。白く霞んだ空間のなかで、蜃気楼にさらわれた彼女の影がじぐざぐに歪む。
ちいさく駆けて手を伸ばした刹那、躓いた彼女の体が勢いよく前へつんのめり、細い髪の毛がやわらかい窓かけのごとく、うんと風を孕んで膨らむように揺れた。

抱きとめた身体は驚くほど熱かった。彼女もきっと、同じことを思っているだろう。
どちらのものともつかない汗が、触れ合う肌の隙間を埋めるようににじみ出ている。

「義勇さん、すき。どんな未来が訪れようとも、きっとわたしを捕まえてね。遠く離れても、わたしが見えなくなっても」

彼女の火照る身体と濡れた視線は、肌を重ねたいくつもの夜を思い出させた。
おれの下で無防備にすべてを晒すちいさなむきだしの、丸腰のいのちは、彼女がいくら異形のものを葬る力のある剣士であったとしても、やはり、雨風からすらも守りたいものであった。

この世界に染まりきらない彼女をあいしている。
この世の不条理を知らないみたいな笑顔がすきだ。そのこころの純朴なあいらしさが損なわれぬよう、おれはできる限りの力を尽くして、彼女を普通の少女のように扱ってやりたいと思う。
そうして彼女から注がれる上質の無性の愛に、おれは生かされているのだ。
彼女への愛をかたちづくる素子のひとつとしてこういった利己心を抱いているということは大変後ろめたく、おれはさらにやさしくなる。知ってか知らずか、彼女は笑う。いつも。口元へ手を添えて。くすぐったそうに身をよじりながら。

「おれはお前を見失わないんじゃなかったのか」
「うん、そうでした」

うんうん、と頷き続ける彼女の顎を指で捕らえる。薄く開いたくちびるは瑞々しく、押し当てたおれのくちびるを包み込むようなやわらかさで迎えてくれた。
ただじっと合わせるだけのくちづけが終わったあと、なごり惜しそうに離れたくちびるの隙間に、彼女の「すき」というささやきが漂い、そして重たい熱風にさらわれて消えた。

「夏に、蜃気楼に、さらわれるかと思った」
「心配性なんだから」

生きることがどんなに辛くとも、おれが守らねば、生きて守らねば、誰がこの少女を、この真白な無垢のこころを生かしておけるだろう。
愛で生かされたことは確かにつらく苦しいことであったはずなのに、今おれは、愛に救われ、ふたたび、愛によって生かされている。

愛にこころを殺されるものがいれば、愛に生かされるものもいる。この生き方を押しつけることはできない。この幸福はおれと彼女たちだけを生かす。おれたちだけへのやさしさ。おれたちだけのものだ。