風花



空が時折ふと思い出したかのように雪を吐き出す、とんと冷えた日だった。
義勇さんはわたしのとなりで、芥子色のたっぷりとした襟巻きに鼻先まで埋め、薄く開いた瞳を気だるげにまたたかせている。

山間の里まではまだずいぶんかかる。
ぽつぽつと言葉を交わして、時折暖を取るようにゆるく抱き合い頬をよせながら、わたしたちはふたりで真白な雪道をひたすらに歩いた。
空はあかるい白縹色をしていた。

「まだ歩けるか」
「はい、まったく平気です。義勇さんはおつらくないですか」

ああ、とほとんど吐息のような返事をして、義勇さんはわたしの海老茶色の襟巻きを、鼻まで隠れるように巻き直してくれる。


このあたりの山々や里はどこも、文明開化から逃れ去る時代にしがみつくような、さみしい雰囲気をしている。
ここにいれば、世界はわたしたちを置き去りにしたまま通り過ぎていってくれる。そんな気がして、わたしは義勇さんの袖を引いた。

「どうした」

義勇さんは立ち止まると、わたしへ覆いかぶさるように両腕をまわして、くちづけをくれる。
このままここにいられたら、真白な雪の世界で永遠にふたりきりでいられたら、どんなにいいだろう。
業を隠すような濃い霧のヴェールのなかには、愛のみが存在している。そこでわたしたちは、重たいもののすべてを大地へと下ろして、ほほえみあって生きるのだ。こわい夜に怯えなくともよい。そこにはただ、やさしくてまあるい愛だけがある。


左脚が硬い雪にはまってしまって、義勇さんの身体がこちらにぐらりと傾いた。
わたしはとっさに両手を腕へと添えた。義勇さんはなぜだかわずかに顔を綻ばせてわたしを見やった。その面持ちが胸のせつなくなるくらいやさしくて、わたしは触れていた左腕ごときゅうと強く義勇さんを抱きしめる。
防寒用の厚手のマントの古っぽいにおいが肺の底にたまっていく。

「こんなふうに世界にふたりきりだったら、義勇さんを愛することだけ考えて、生きていけるのに」

合わせた頬が冷たかった。
わたしのひとり言のような呟きは、白いもくもくとした靄になって空へ散る。風の吹くように、雪が降る。

「愛を貫くことがたやすければ、おまえのいるありがたさが、今ほどまでにはわからなかったかもしれない」

義勇さんの低い声が、耳元で淡雪のようにしずかに響いた。
確かに、とわたしは思う。
この愛を守りたいという決死の覚悟は、確かにわたしたちの絆を強固なものにしているに違いない。

わたしたちは誰も、しあわせよりも救済を求めている。
愛にひとは救えるだろうか。
ときに幸福が救いではないように、やさしさにひとが救えるとは限らないように、愛が必ずしも背中を押してくれるものという訳ではないということを、わたしはようく知っている。
自分を責めながら生きてきたわたしたちは、皮肉にも痛みにいのちを繋がれて日々を過ごしていた。痛くなければ歩けなかった。あのころ、苦しみは救いだった。
苦しみに身を置くことは、罪を禊いでいるのだと錯覚できて都合がよかった。
あのころのわたしには、愛に抱かれるここちよさなどは、微塵も想像できないことであった。

今の時代、愛とは特定の病にしか効かぬ薬ようなもので、救いたいひとたちがたくさんいるというのに、わたしたちの愛は、わたしたちにしか効力を発揮しないものなのだ。

すべてのひとが愛に救われることはない。
与えられた幸福を手放しで喜べる時代もまだ来ない。
この両手でできることは限られているし、この両足で行けるところもまた、限られているのだ。

真白な台地にわたしたちの影は、細い枝の上にのしかかる雪帽子のように見えた。
晴れた空が、ふと思い出したように、雪をひとひら降らせた。
長い抱擁のあと、わたしたちはまた歩き出す。掛け声もないのに、ぴったりと同じ歩幅で、同じ呼吸で。