星のかけら

シンプルなものであっても、ウェディングドレスというものは、大概、重いものであるらしい。
ここへ来る前は、ローブデコルテのものがよいだの、やはり上半身をぎちぎちに締め上げたプリンセスラインのものがよいだの、はたまたすとんとしたシルエットのヴィンテージものもよいだのと、様々のことを考えていたのだけれど、いざずらりと並ぶうつくしいドレスたちを目の前にすると、途端に足がすくんで、わたしはなにも考えられなくなってしまった。

シンプルなものから着てみましょうかと勧められるまま、まずはじめに、サロン内では低価格のマーメイドタイプのドレスに袖を通した。
試着は安くてシンプルなものからだんだんと華美なものにしていき、アクセサリーやオプションなんかも徐々に徐々にと足していくのがここの営業のセオリーらしかった。一度上げてしまった生活水準を下げるのが難しいように、そうしていけば、グレードの低いものでは満足しにくくなってしまうからだろう。

しかし、三着目のドレスを着たあとも、わたしのこころは奇妙にしんと静まったままであった。
鏡に映るわたしはなぜだかうつろな瞳をしていて、なめらかな光沢を携えたミカドシルクの白色だけが、ぺかぺかと眩しくかがやき、浮いて見えた。わたしの肌とはまるで馴染んでいないようだった。
ドレスはわたしの、とても好みのデザインのはずだった。
重たくて、とても歩けないと思った。

おきれいですよ、と言ったスタッフの顔がすこし不安げだった。
わたしの反応の薄さに戸惑っているようだ。
とてもうれしいはずなのに、わたしはどうしてかうまく笑うことができずにいた。

急用ができてしまった義勇さんがもうすこしで合流するはずだったので、わたしはまるでぴんと来ないアクセサリーを撫でたり持ち上げたりして、なにやら悩んでいるふりなどをしつつ、彼の登場を待つことにした。不思議な気分だった。わたしがわたしでないみたい、もしくは、別の誰かの視界を盗み見ているかのようだ。
家を出るまでは、自分が世界でいちばんしあわせな花嫁だと思っていたのに、だ。

「なまえ」
「義勇さん」

外はとても熱かったのに、サロンに現れた義勇さんはいつもの涼しい顔をしていた。
駆け寄って胸元に頬を擦りつければ、頭をやさしく撫でてくれる。
スタッフはドリンクを持って来ると言い、さりげなく席をはずしてくれた。ところ狭しとドレスの並ぶ広いフィッテングフロアでふたりきりになって、わたしはようやく自分の身体と脳みそを取り戻したような気分になれた。

「遅くなってすまない。ドレス、似合ってる。きれいだ」
「義勇さん、キスして」
「ご機嫌ななめか、どうした」

義勇さんのぬるいくちびるがゆっくりと触れる。深くないのに、たっぷりとしたやさしいキス。魔法のようにやわらかい。

「ドレスをね、ずっと着たかったの」

はらりとこぼれた涙を、義勇さんの親指が拭ってくれる。
サロンは着替えることを前提としているから空調が高めに設定されており、泣くととても暑かった。

「夢が叶うのってこわい。叶えば、なくなっちゃうのよ。とっても大切だったのに、手に入れることで、失ってしまうの。一緒になることも花嫁になることもゴールじゃない。人生は続いていくのに」
「不安か」
「うん。もう一度キスして」

たいせつな日を迎えることはできても、そこに留まることはできない。
迎えては見送ることを繰り返して、そうしていくうちに、いつしかなんとなくこなすだけみたいな日々がやってくるのだろうか。寄り添いあうわたしたちのもとへも、いつか、興味のないコマーシャルを流し見るような、灰色のつまらないくらしが訪れるのだろうか。
しあわせな花嫁がしあわせな花嫁のここちのままに一生を過ごせた幸福な事例などは、はたして存在するのだろうか。

「ずっとあとに叶う夢を作ればいい」
「たとえばどんな」
「十年後にモルディブに行く」
「じゃあ、モルディブではね、水上コテージでカクテルを飲みながら、義勇さんをのんびり眺めるの。何日もずっと」
「そこでもう一度ドレスを着ればいい」
「バウリニューアルですね。でもわたし、年を取ってる。変じゃないかしら」
「きれいに決まってる」

義勇さんに促されて、おおきな鏡の前にふたりで並ぶ。
ふたりで話すうちにわたしの頬はふくふくと桃色に上気して、ドレスやアクセサリーは、先ほどよりもずっとずっと馴染んで見えた。
義勇さんが隣にいるとわたしは、ここにいるのが不自然でない、一介の花嫁のようだった。花嫁然とした面持ちをしていた。

「来世も義勇さんと一緒になる」
「あたりまえだ」

義勇さんは一拍置いてそう返事をするとこめかみへキスをくれて、そのあとは、わたしに似合いそうだと言って、わたし好みのうつくしいドレスをたくさん見つけてくれた。


遠い昔、白無垢を着たことがある。
あのときもはじめはとても不安でたまらない気持ちだったということを、おぼろげにだけれど覚えている。
今生をしあわせにまっとうすれば、次の世では幾分か楽な気持ちで夢のおわりを迎えることができるのだろうか。
それともわたしはあいも変わらず臆病で、まためそめそと泣いてしまうのだろうか。
なんとなく後者のような気がしているのだけれど、いつの世でも、わたしの隣にはすてきなパートナーがいるのだから、きっと大丈夫という気がした。

義勇さんはすこしほっとしたような顔をしていた。
このときを迎えることは、義勇さんにとってはきっと悲願なのだ。しあわせがあたりまえにやってくるものではないことを、わたしはよく知っている。
そう思うといとしくてせつなくてたまらなくなって、吊るされたドレスの陰で、今度はわたしからキスをした。離したくちびるを追うように、義勇さんもキスをくれた。

何十年、何百年もあとのドレスは、一体どんなふうなんだろうと考えた。想像はつかなかったけれど、きっと義勇さんはきれいだと言ってくれて、わたしは幸福なのだろう。
それだけでまったくのじゅうぶんだ。少なくとも、今のわたしにはそう思えるのであった。