ジュゴンを抱く夢

椿が咲き、桜の枝が、吹く風に上機嫌で揺れる季節になった。
ふたりで暮らした屋敷で、おれたちは今もまだ暮らしている。しかし以前とは変わって、なにやらここは、一時的に整えられた仮初の安息地であるように思われてならなかった。
荷物は日に日に片づけられてゆき、彼女の着物や宝飾品なんかは、ひとにやるなどして、みるみるうちに、一目でわかるほどに少なくなった。
おれの荷物ばかりが残されて、どの部屋も、彼女の私室でさえも、まるでおれひとりの部屋のように見えた。
彼女はてきぱきと、そして確実に、死ぬ準備を進めているのであった。

生きてほしいと伝えることが、彼女にとってどれほどの絶望になるか、そして告げるのが早ければ早いほど長くなる、その日までの期間が、どれほど彼女を苦しめるのか。
そう考えると苦しくなって、不安げなおもざしに追い討ちをかけることもできず、日々は倦んだ空気を孕んだまま、低く地を這うようにしてずるずると流れた。


「なにか贈ろう」

鱗滝先生からの遣いで雪ノ下まで出かけた折にそう言うと、彼女は困ったように眉尻を下げて笑った。

「ものをいただく代わりに、江ノ島のほうまで行きたいというわがままを聞いていただくのでは、いけないでしょうか」

上目遣いの瞳が、厚い雲の垂れ込める空のどこかからかひかりを拾い、きららかに輝く。
組まれた両の指どうしをすり合わせながら、いたずらのばれたこどものようにもじもじとしている。

「一泊しよう。この様子なら明日は晴れる」

彼女はちいさく、しかし勢いよく頷いた。提案は正答のように思われた。

雲間から細いひかりの梯子が降りてきた。潮風はあいからわず強く吹いて波の上を走る。びゅうとひと吹きすれば、しばらく置いておおきな白波が立ち、重たい風をこちらへよこす。
彼女がふたりぶんの荷物と土産を両腕に抱えたから、おれはその細い腰にそっと腕をまわした。
終戦以来、荷物は彼女が持つようになった。片手で持てるときは空いた片手どうしを繋いでほしい、両手が塞がったときはどこかに触れていてほしい、というのは、終戦後はじめて屋敷へ帰る途中に、彼女がぽつりとこぼした望みだった。
手でも腰でも頭でも、触れてやると初々しくはにかむところは、何年経っても変わらない。


雲の奥にぼんやりと見えていた太陽が地平線へ溶けたあとも、彼女は、もやがかる海を、ただずっと見つめていた。
この儚げな白い横顔よりも、自分が先に消えるのだということが、はたして現実のことなのか、時折、よくわからなくなる。


海の望める部屋は満室で、手配された客間は庭に面していた。
雪見障子から、雨に濡れるすみれの花が見える。ちいさなむらさきの花びらは、縁が焦げたように赤茶けて萎びていた。

「やさしく降る雨が死に水だなんて、すてき」
「死にたいと思うか」
「死にたいと思うことと、生きるべきではないと思うことは、同じでしょうか」
「来い」

彼女はゆっくりと近づいて、そうして心臓に耳を当てるように、おれの胸元へそっと頬を寄せた。

「とくとくいってる。義勇さんの胸は、小鳥みたい。あたたかくて、日陰のにおいがして、わたしをたまらない気持ちにさせるの」

規則正しく上下する背中をあやすように撫でると、彼女はくすぐったそうに、くぐもった笑い声をあげる。
彼女の背中も、ひなたの小鳥のように、とくとくとちいさく脈打っている。あたたかい。
おれが死んだときも、彼女はこうしておれの胸に耳を当てて、そして、泣き崩れたりなどするのだろうか。
痣者の死についての情報は少ない。今回はこれまでとは状況もまるで違っている。はたして、死体が残るのかどうかもあやしく、ちりになって消えたとて不思議ではない。そうなれば、彼女は。
ほとんどおれの私物しかないがらんどうの部屋で、ひとりきりで絶望するのだろうか。そうして腹でも切ってしまうつもりなのだろうか。

「ごめんなさい、義勇さん。わたし、いじわるでした。わたしが死ぬと、お思いね。もちろん、そのつもりだったけれど、それに対する苦言を義勇さんに言わせるのは、あまりにも悪ですね。そんなこと、義勇さんの望みとはかけ離れていることだって、わかるのに」

ごめんなさい、とおれの胸板の内側に届けるように、彼女はか細く呟いた。

「抱かれるたび、これを最後にしたい、もう抱かれまいと思うの。あれが最後と思い返すよりも、これが最後と覚悟を決めるほうが楽と思って。でも、ひとたび離れると、さみしくて、恋しくて、たまらなくなってしまうの。この矛盾が、一層のこと、左右からわたしを引き裂いてしまえばいいのに」

「ごめん」

「ううん、それよりも、すきと聞かせて」

「すきだよ」

「うん、すきです」

「あいしてる」

「生きられるところまで、生きます、わたし。あなたがたの軌跡が、わたしの身体のうちに、眠っているから。あなたのほとんどを、わたしだけが、ただしく記憶しているから」

ほとんど、自らに言い聞かせているような響きだった。だから死んではいけないのだと、必死に思い込もうとしているようで痛々しく、ふいにおれたちをなにかおおきな災害などが襲って、よくわからないままにふたりで死んでしまえるのならどれほどよいかと考えて、よからしくない思考を揺すり落とすよう、すぐかぶりを振った。
ちいさな手を取って、海へ出た。


灰色の水面が揺れて、折れて、激しく打ちつけ合いながらこちらへ押し寄せる。
畳岩にぶつかり砕けた波が、どぷん、と重たい音を立てて、また暗い海へと帰っていく。

彼女はいつもように、ゆるりと穏やかなほほえみをたたえていた。
ひとびとははじめ、手を繋ぐおれたちを忌まわしげに眺めているが、すれ違うほどの距離になればおれの片腕のないことに気がついて、皆一様に、気の毒だというふうな面持ちになった。

一際おおきな波が押し寄せて、鋭いしぶきをこちらへ寄越す。
庇うように海へ背を向けた。うなじに数滴のしずくが跳ねた。この程度のことからしか守ってやれないのだというのに、心底うれしそうに、彼女は笑うのであった。
遠くで溶け合う白波が、おおきな白い生き物のように見えた。