菩提樹

日が昇る。朝日がつんと冷える空気を、高貴なかがやきをもって、一層と澄ませてゆく。
枕元へ寛三郎が降りてきてふわりと香ばしい風をよこすので、はっと目を覚ました。

「ありがとう、起こしてくれたのね」

指で頭をそっと撫でてやると、彼はくるくると鳩のように喉を鳴らして、その場でまるくなる。
お勝手には彼専用のちいさな扉があって、深夜や早朝などは一足早くそちらから帰宅し、こうして起こしてくれることがある。わたしが、一秒でも早く義勇さんに会いたいことを知っているのだ。

廊下に出ると、床板から天井まで、黄みがかった桃色のひかりのかがやきと、澄んだ冷気でいっぱいに満ちていた。
忙しなく廊下を駆けて、たたきまであと三十歩ほど、というところで扉が開く。
冬の朝日のにおいがどっと吹き込んでくる。
桃色のかがやきを背負った義勇さんがこちらを見つめている。
はっはと息を切らせて走るわたしの、安堵に満ちたまぬけな顔を見て、義勇さんもふっと口もとを綻ばせた。

「おかえりなさい」
「ただいま。寝ていなかったのか」
「ううん、寛三郎が起こしてくれたの。えらい子」
「頬が冷たい」
「今朝は冷えるから」

朝が来て、義勇さんが帰ってくると、家のなかはもっと明るくなる。家じゅうが琥珀色にかがやいて、どこよりも、安全で、あたたかな場所になる。
やさしさのにおいで満ちて、泣きたくなる。生きていてくれるということが、どれだけ尊く、ありがたいことなのか、わかるからだ。

「炭治郎くん、連れてこなかったんですね」
「任務が長引いたから、遠慮してるようだった」
「悪いわ」
「変に背伸びしたところがある。こどもでいられるときは、あまえたほうがいい」

義勇さんだってまだ若いのに、とわたしは思う。
この家にいていちばんかなしいことは、わたしのいるかぎり、義勇さんは二十五にも満たない若い青年という身分を放棄して、わたしを守る強き恋人として襟を正してしまうからだ。
蔦子さんを守りたかったおさないころ。人々を守り助ける隊士になるための日々。入隊してからの日々。生まれてからこれまでの長い年月のなかで、義勇さんが自らの意思でやさしい波に抱かれにゆくことなど、あったのだろうか。
あたたかなところへ流されることなんていくらでもできたはずで、彼の身分や歳を思えば、それは決して間違ったことではなく、役得というまでのことでもなく、ただただあたりまえのことだというのに。

「傷」

人差し指の切り傷を見つけて、義勇さんはわたしの手に触れた。
わたしはその手をとっさに捕らえて、義勇さんの瞳をまっすぐに見つめる。なにか、説得や頼みごとをするときのように、ぎゅ、と強く握った手のひらは、冬の外気が抜けきらず、まだすこし、冷たかった。元々、低体温なのだ。

義勇さんはめずらしく素直にびっくりしたようで、まあるくした目をしぱしぱとまたたかせている。
そのまま力をぐっと入れて引っ張ると、どこか観念したかのように身体を倒して、わたしの胸に抱かれてくれた。

「どうした」

「傷なんて、平気です。ここは義勇さんのおうちで、わたしは、守っていただかなくともだいじょうぶです。戦える身です。刀もあります。それに、わたしは、今日が最後の日だって構わないんです。義勇さんと一緒なら、なんだって後悔はないですよ」

「守りたいと思うことに、おまえの強さは関係ない。おまえがおれより強くても、赤子同然に弱くとも、同じことだ」

おおきな背中をさする。あたたかい。つむじに頬擦りをする。量の多い髪の毛が頬にあたり、かえって抱かれている気分になる。

「あまえてほしいというのは、愚かなエゴイズムでしょうか」

それとも、守りたいという気持ちに抱かれることこそが、よき妻としての、良人への務めなのだろうか。
しかしそうすれば、強くて善良なひとは、あまえる権利を持たないということになってしまう。そんなかなしい、めちゃくちゃなことがまかり通ってよいものなのだろうか。
わたしは思案して、すぐによい言葉を紡げず、黙ってまた強く抱きしめ、頬擦りをした。

「おまえを守るのは、おれの意思であって、義務じゃない。ただ同じように、今身体を預けていることも、おまえに導かれたからではなく、おれの意思だ」

「持ちつ持たれつ、ということにしてくださると、言うんですね」

「おまえも大概、あまえ下手だよ」

義勇さんが低く笑って、わたしの胸がずんと震えた。
ゆるくゆるく、そっと体重を乗せられて、わたしは居間の厚い座布団の上に静かに倒れ込む。義勇さんは、わたしのふっくりとした乳房に仔猫のように頬を預け、目を閉じている。
長いまつ毛が濡れたようにつやつやとかがやいており、とつ国のお姫さまのような、繊細なうつくしさをたたえている。

なんだかせつなくなって、わたしは義勇さんの頭をまたぎゅうと抱きなおした。義勇さんは一度つと目を開けて、また、ゆっくりと閉じた。
どちらがあまえているのか、どちらが抱かれているのか、よくわからないまま、わたしたちは冷えた床板の上でじっと黙り、互いの体温と血の巡りを感じていた。

朝陽がだんだんと透明になってゆく。
言い切れるはずなどないというのに、この静けさが、今はなにものにも壊されないものであると思い込んでしまう。
恋には、そういう魔性が潜んでいる。しかしその危うさについて考えるよりも、今は、このひとの安らかな眠りを守りたいと、ただ、そう思うのだ。ただ、強く。