Lost

踏切の、歪んだサイレン。
ファンファン、という音が二重に聞こえる。不協和音はさらに響きを歪ませて、やがて、はた、と聞こえなくなる。そうすると、今度は子供の声が聞こえる。
怒ったり、笑ったり、ラッパの破裂音のような乱暴な高声を散らしながら、遠ざかってゆく。
わたしは厚手のセーターの袖を指先で深く捕らえながら、その両腕でちいさな包みを抱いている。
晩秋の乾いた風が頬を撫でた。

広い通りに出て、街路樹を見上げながら、さくさくと小気味よく砕ける落ち葉の音で、なんとなく早足になっていることに気がついた。
おおきな校舎と広いグラウンドが見えてくる。

錆びたフェンスにぐるりと囲まれたあの一角が、つい何年か前までは、わたしの世界のすべてであった。
ちいさな箱のなかで、義勇さんを見つけて、あいして、一生懸命だったわたし。幼いばかりだったけれど、義勇さんへの気持ちだけは、幼稚でなかったと思う。今も。

義勇さんは広い敷地内のフェンスに割り合い近いところで、白いジャージのファスナーを上まで閉め、つんと澄ました顔でホイッスルを鳴らすなどしている。
わたしは音を立てて吹く鋭い風に煽られながらも、しばらくじっと突っ立ったまま、彼の姿を見つめていた。
冨岡先生は、女生徒からの評判のよい教師だった。今もきっと変わらない。
昔と寸分も変わらない端正な横顔を見つめて、胸の鼓動の高まるのを感じる。今も、寸分も変わらず、あいしている。


職員用の裏口で宇髄先生と会う。
こちらを見るなり愉快そうに笑うから、すこしはずかしくて、わたしは肩をすくめてはにかんだ。

「弁当忘れるなんてベタだな」
「あの、渡しておいてくれますか」
「せっかくだから会ってけよ。美術準備室からなら、校庭も見えるぜ」

宇髄先生は、プラスチックのトレイから来客用のネームホルダーを取り出してわたしの首にかけると、大股でずんずんと廊下を進んでゆく。

ひと足踏み込むごとに過去へ帰ってゆくような気がして、妙な感慨が胸を支配し、わたしは彼のずっと後ろのほうをのそのそとゆっくり歩いた。おおきめのスリッパが踵から離れて床を叩くため、響く足音がめちゃくちゃで、間抜けだった。


美術準備室からは、たしかにグラウンドがまるごと見渡せた。おうい、と思いきり呼べば、気づいてもらえそうな距離だった。

「義勇さんは、学校ではあいかわらずですか」
「あいかわらずの朴念仁だけど、まァ、ちょっとはやわらかい雰囲気になったんじゃねえの」
「笑いますか」
「いや、ほとんど」

宇髄先生は愉快そうに笑った。
鋭いホイッスルの音が響き、生徒たちに続いて義勇さんが校舎のほうへ歩いてくる。
わたしは窓から身を乗り出して、中途半端に張った声で呼びかけた。先生。
義勇さんは眩しげに目を細めてこちらを見上げ、ちいさく手を掲げてくれた。日に透けると青っぽい髪の毛が後ろにさらりと揺れて、口もとはゆるく弧を描いている。

「いっつも笑ってりゃいいのに」
「こころのままに生きていてくれれば、じゅうぶんです」
「ふうん」

やがて昼休みを告げるチャイムが鳴り、それからしばらくして、短いノックと共に義勇さんがやってくる。
古いたてものの埃っぽいにおいや、いれたてのヒーターと、業務用ワックスのにおい。女学生のチープなコロンのエタノールじみた軽いかおり。
校舎という、奇妙な、若い哀愁に満ちた箱庭のなかの、義勇さん。
浅いめまいがして、わたしのこころはたちまち少女のころへ戻ってしまう。
はじめてすきと思ったときのようにのぼせてしまい、へどもどするばかりでうまく顔が見られない。

「あの、誰かへ預けたら、そのまま帰るつもりだったの。押しかけちゃって、ごめんなさい」
「いや、忘れてごめん。下まで送る」

遠慮をしたものの押し切られるかたちで、わたしたちふたりは美術準備室を後にした。
職員玄関の近くを通る階段はいつも薄暗く日の当たらないわりに、床のリノリウムは時間に焼けて黄ばんでいる。

「どうした」

ひと足先に階段を降りきった義勇さんが振り返る。

「あのね、今わたし、とてもどきどきしているの。まるで、恋をしたてのころみたいに」

「普段はしていないということか」

「ううん、違うの。今もね、毎日がときめきの連続なの。だけど今のこれは、普段とは違うの。今義勇さんをあいしていることは、神さまに許されたことだけど、はじめ、この恋に気がついたときは、いけないこと、と思ったの。つまりわたし、今、とってもいけない気持ちなの」

義勇さんは、へえ、と低く呟いた。
生徒たちの声や足音がハウリングのように重なり、エコーのようになって遠くに聞こえる。

「学校って不思議ね」

身体の内側に湧き上がったインモラルな気持ちをごまかすように、わたしはすこし早口になってちいさく笑う。わたしのすこし下まで階段を戻ってきた義勇さんの顔が、間近になる。
伸びてきた手がうなじのあたりをなぞって、刹那、ぐっと強く引き寄せられたが、ともすれば重なってしまいそうなくちびるには、結局なんのぬくみも与えられなかった。

「今夜は早く帰る」

義勇さんは左側の口角をひそかに持ち上げて、それからジャージのポケットから車のキーを取り出し、そのまま職員玄関のほうへ歩いていった。
わたしが階段を降りきる前に、廊下を三人の女生徒たちがぱたぱたと駆けてゆく。
開いた玄関扉から吹きこむ乾いた木枯らしがわたしの頬の横を通り過ぎたけれど、揺り起こされた青いときめきは、まだ残ったままだった。

家へ帰ったら日記をつけて、アルバムを出して、それから、夜はお酒はよして、並んでゆっくり思い出を語ろうと思った。そして、今日は手を繋いでただ眠るのでもよいと思った。
わたしはきっと、身じろぎもできないほどに緊張して、クローゼットのへりに掛けられたジャージを横目で見るなどして、さらに胸の内を熱くするのだ。
こころ穏やかに義勇さんを思えることは、幸福なことだ。しかし、思い焦がれた日々のせつなさやインモラルなときめきの感じが薄れていくことは、非常に惜しいことである。
忘れ物を届けたつもりが、たいせつな失せものをみつけたのだ。
わたしは、晩秋の風からこの気持ちを守るようにして胸に手を当て、一息に階段を駆け下りた。
先生、と呼びたくなったけれど、よした。わたしを見つめる義勇さんのまなざしがやさしかった。あの頃はまだ知らなかった、恋人へ向ける、とろけるような視線だった。