Prayer

人並みのなかを、義勇さんとわたしはかたく手を繋いだまま、ちいさなさかなのように揺られていた。
わたしは、お互いの胴を紐でかたく括ったまま恋人と入水心中をした、むかしの文士のことを思い浮かべた。
わたしも死ぬときは、どんなに激しい濁流のなかでも離れずに、肌のすべてで義勇さんを感じながら果てたい。
義勇さんは、わたしのくだらない夢想を見透かしたように一度こちらをちらりと見て、ちいさく笑った。同じ考えだったら、うれしい。

ドアが開いて、人々はその隙間を水のように流れてゆく。わたしたちは横から後ろから、あらゆる方向から揉まれながらも、指先だけはぎゅっとかたく結んだまま、川水のよたよたと低く流れるようにして、向こう側のドアのあたりに収まった。義勇さんがわたしの身体をさらに奥のほうへ滑り込ませるように押し出して、冷たいドアガラスに背中が触れる。義勇さんは片手でつり革を掴み、塩化ビニルの床にしっかりと二本の足を置いて、わたしを庇うように立っている。

「なんだか新鮮です」
「満員電車なんか久しぶりに乗った。平気か」

義勇さんがいるから、とわたしが答えると、義勇さんはすこし目を細めて、眉を寄せた。癖なのだ。
時折見せるその表情が気になり、怒らせてしまったのかと聞いたとき、かわいいと思った、と照れたように答えてくれたことがある。なるべく口にするようにする、とも言っていたが、わたしは首を横に振った。無理矢理に取り出した言葉よりも、素直な態度のほうがうれしいと思ったからだ。
それに、内心照れているときの義勇さんの、ちょっとだけ上った体温をそっと感じるだけで、わたしはじゅうぶんに幸福なのだ。

目の前の厚い胸板に、そうっと額を寄せてみる。
向こう側のドアが開いて、エアーコンプレッサーの間の抜けた音とともに、プラットフォームの冷えた夜気が人々の隙間へ滑り込む。
鼻先が、ほこり、皮脂、香水、様々のにおいのなかに、きららかなあまいかおりをとらえて、まつげが震えた。

「金木犀」

ひとの波が揺らめいて、わたしは義勇さんの胸に強くしがみつくかたちになる。
水のように涼やかな声が、わたしの体内にだけ響く。

「義勇さんの、そういうところがすき」

満員電車のぐずぐずに溶けた混沌のかおりをほどいて、咲き濡れる花を見つけられるところ。
でたらめに散らかった世界から、ちいさなかなしみや、うつくしいものを掬いあげられるところ。
それを、そっと、わたしに教えてくれるところ。

義勇さんには、苦しみも、せつなさも、幸福も、きっとほかのひとには見えない様々のものが見えている。こまかな硝子の破片のような事象の連続が。
楽には生きられない種類の人間の特徴だ。傷つくことの多い人間の。
同じ世界が見えていると感じる。持ちきれないほどの感情を拾い、抱え、生きてゆく。救えたものよりも、落としたもののほうばかりを気にしてしまう。そういう生き方をしている。

車両がまた動き出す。
わたしは瞳を閉じて義勇さんの胸に額を当てたまま、金木犀のかおりが細くなり愛しいかおりに混じってゆくのを、じっと感じていた。

「同じようなこと考えてた」

花の咲くことのよろこびや尊さも、義勇さんのやさしさのありがたみも、そのこころのうつくしさも、センチメンタリズムゆえの特権であるというならば、悪癖といえるこの思考も捨てたものではないと思えてならなくて、わたしという人間の生きづらさのすべてを解放してくれた義勇さんとの巡り合わせには、運命的なものを感じざるを得なかった。
拝みたくなるほどの、ありがたさ。

祈るように、あいしている。