バスとキャンディ

錆兎と約束していた夜の食事の予定がなくなったため、家に着いたのは十六時前だった。
ゆっくりと傾きかけた日のおかげで、室内はやわらかなばら色をしている。換気のためにすこしだけ開けた窓のそばで、カーテンが揺れている。
ローテーブルの上には、読み差しの本が置いてあった。香水のムエットが付箋がわりに挟んであり、華奢な文庫本の頭から、おおぶりなビオラの花が咲いているようだった。

開け放された脱衣所のとびらから、バスルームのあかりがついているのが見えたため、入浴中なのだとすぐにわかった。
上着を脱いで時計を外し、キッチンで手洗いを済ませ、シャツの袖をまくったままバスルームへと向かう。

「なまえ」

浴室ドアをちいさく二回ノックしながら名前を呼ぶと、応えるように、水の波立つ音がした。

「義勇さん」

どうしたの、と言葉を続けようとする彼女は、言いながらも、おれの顔が近づくと、あっさりと観念したように瞳を伏せ、喉を反らせて上を向いた。言葉は最後のほうになると、むにゃむにゃとしたちいさな寝言のような唸りになった。薄く開かれたくちびるの隙間から体内へ滑り込ませるように、ただいま、と呟く。

「錆兎に急用が入った」
「夕食は」
「食べてないよ」
「お外で食べますか」
「うん。とりあえず、ゆっくり入るといい」

バスタブの八割あたりまで張られた乳白色の湯からは、あまいミルクと、ほのかにココナッツのようなかおりがする。彼女はその大分冷めたかと思われる湯に、ちょうど乳房の隠れるくらいまで、身体を沈めている。折られた桃色の濡れた膝が、バスタブのまんなかあたりにふたつ、小島のように浮かんでいる。

「義勇さん、ここにいて」

誘われるようにまたくちびるを合わせた。彼女の手のひらが頬を包んで、頬や、顎や、首が濡れる。くちづけを繰り返すごとに、腕、胸、と、触れる面積は多くなった。シャツが水を吸って、どんどんと重くなってゆく。しまいには彼女は人魚のように上半身だけを水面から出してすべておれに預けてしまったため、おれのシャツは絞れそうなほどに濡れ、肌にぴたりと張りつき、もはや衣服の意味をほとんどなさなくなってしまった。
あちこち触られて、横髪も、前髪も、気がつけばしっとりと濡れている。

「濡れた」
「すてきですよ」

彼女は目を細め、いたずらっぽく笑う。くちびるや肩や鎖骨がぬらぬらと濡れて、ひかっている。
白いハンドタオルを一枚手渡すと、彼女はそれを湯のなかでそっと広げて胸元にあて、両膝をきゅっと腹のほうへ引き寄せた。
一緒に入りたがるくせに、見られたくはないらしいのだ。湯のつめたくなるまで話したあとは、先におれを洗い場にやり、おれが外へ出るまでずっと、彼女はバスタブのなかにいる。そして、たびたびキスを求める。おれは体を洗っていても、シャンプーを流していても、彼女のほうを気にしていなくてはならなくて、バスタブのへりから伸びてきた指先を握ったりすることに忙しい。彼女は、キッチンにいるときと、バスルームにいるときは、ベッドにいるときよりもわりあい積極的である。
一緒にバスルームを出るときは、どちらも我慢がきかなくなったときだ。

「義勇さんに触れたい」

濡れた瞳がおれを捉える。
どうせすぐに出ることになると思ったため、身につけたものはすべて適当に放り、浴室ドアは開けたままにしておいた。水底に膝をついて、ゆっくりと倒れ込むように彼女のほうへ身体を傾ける。濡れた腕が首に絡む。湿った肌からは、どの香料のかおりでもない、彼女自身のあまいかおりがする。湯はすっかり冷めているが、しかし、のぼせたみたいに軽い眩暈がした。