ソレイユ

生活の幸福度をあげるためには、まず、質のよい睡眠をとるべきである。
あるときそう言われて、わたしはすんなり同意した。

大抵の人間は、歳を重ねるごとに、睡眠を盲信するようになる。ほとんどのことは眠れば治る、などと信じきってしまうひとすらいる。
わたしはというと、そこまでの激情をもって幸福な眠りに固執しているというわけではなかったが、夜通しあそぶ、などということを、むかしの自分はなぜ、あれほどたやすくこなしていたのか、とふしぎに思うことはあるし、義勇さんの腕に抱かれて深く眠ることは、なにものにも変えられない幸福であると思う。
それはしかし、紐解いてゆけば、睡眠そのものをたいせつにしているというよりも、義勇さんのいるしずかな時間をあいしているということであって、すなわち、わたしにとって、人生の幸福度をあげるのは、義勇さんの存在そのものなのであった。
よくよく考えてみれば、眠られるか、眠られないかは、さほど関係ないのである。


おもてに出ると、空はすでに、うっすらとしらみはじめていた。
闇がいどころをなくし、追われるように消えてゆく。

最近見つけた小料理屋で、おいしいおばんざいと日本酒をたのしんでいたのだが、帰りがけに義勇さんの右腕が痛んだので、ホテルで休憩をしていたのだ。時おりあることなので、わたしたちは慣れたようにオフィス街のはずれへと向かい、わざとらしいミルキーピンクの壁と、不必要におおきな鏡に囲まれて、悪夢がさるのを待った。言葉通り、休憩をしていた。震える肩を抱いて、じっと、祈り続けていた。


ホテルの広告は、看板もテレビモニタもラミネート加工の施されたチープな案内パンフレットも、どれもレイト・チェックアウトを押し出しているようであったが、義勇さんもわたしも今日は仕事で、一度家に帰らなくてはならない。
腕の痛みもすっかり引いたようなので、わたしたちも、闇とともに追われるようにして、朝方の冷えた街に出た。

「ごめん、眠いだろ」
「ううん、平気です。それに、わたし、朝方の街ってとてもすき」
「よかった」
「わがままを言ってもいいですか」

義勇さんはこくりとちいさく頷いた。やさしい目をしている。わたしは義勇さんのこの顔が見たくって、いつもちいさなわがままを言いたくなってしまう。
わがままは、すぐに叶えられるようなものでなければならなかった。パンを買って帰りたいとか、まつげにかかった髪の毛を取ってほしいだとか、抱きしめてほしいとか、キスをしてほしいだとか。
そういうおねだりをしたあとの、身体じゅうで、わたしのすべてを許し、いつくしむような面持ち。
ちいさな願いごとの成就よりも、このまなざしを一身に受けることのほうが、ずっとずっとおおきな意味があった。

「すこしだけ、このまま堤沿いを歩きたいの。川面と朝日が、とてもきれい」

義勇さんはほとんど瞳で頷くようにして、わずかに首を動かした。
わたしはそのひそかなシグナルをそっと受け取り、堤まで、ステップを踏むように軽く駆けた。

川面は黎明のしっとりとしたかがやきを、その流れにうつしとり、まるで宝石を運ぶようにせせらいでいる。
堤沿いには、ずっと向こうのほうまで桜の木が植えてあり、どの枝も、たくさんのちいさなつぼみを携え、川のほうへぐっと迫り出し、重たそうに、しかし幸福そうに揺れていだ。重みとは、あるときには、なにものにも変えがたいしあわせとなるのだ。持ちきれないほどのつぼみを抱えた梢のよろこびが、わたしにはよくわかる。

振り返ると、わたしの駆け出した場所に、義勇さんはまだじっと立っていた。置き去りにされたこどものように、所在なさげに前髪を揺らしてる。

「痛みますか」
「いや、ぼうっとしてた」
「義勇さん」
「すぐ行く」
「そこにいて」

義勇さんのいる橋梁の名板のあたりまで、わたしは急いで駆けた。迎えにいかなければならないと思った。今のわたしは、迷子のような顔をした彼の手を引いて、連れて帰ることができるのだから。

橋名板には、橋の名前がひらがなで削り出されている。橋梁にはどちらが入り口なのか出口なのかが決められていて、大抵は名板を見るとわかるようになっている。義勇さんは、りっぱな橋梁の、出口に立っている。

「帰りましょう」

朝もやを割って差す琥珀色のひかりが、義勇さんの頬や額や、髪の毛を照らす。
かがやきをいっぱいに孕んだ義勇さんの髪の毛は、うつくしい夜明け色をしていた。

おおきな手のひらがわたしの両頬を包んで、たっぷりとしたキスがなされた。しっとり濡れたくちびるどうしをただ押しつけあうだけの、やや幼稚で、しかし幸福な、一抹の邪気もないキスだった。

義勇さんは、右の親指の腹で、わたしの頬を何度も撫でた。

「帰ろう」

家までは、三十分ほどで歩いて行かれる。
ガードレールのむこうを走ってゆくタクシーを見送りながら、わたしたちは手を繋いで、ゆっくりと歩いた。

澄んだ冷気を残して、街はすっかり朝になっていた。
空は白っぽい水色で、山やビルやその他の四角いたてものと溶ける地平線のあたりだけが、黎明の名残で、琥珀色のヴェールをかけたようにぼんやりと淡くかがやいていた。