アオサギ

行きたいところを聞かれたので、海が見たいと答えた。海はすきだ。義勇さんと見る海が、特に。

「電車で行こう」
「そうすれば、お酒が飲めますね」

義勇さんがちいさく頷く。わたしたちは、ふたりともほどよく酔っている。

「でも、ほんとうに海でいいんですか?義勇さんのすきなことをするのがいいですよ」

「おまえがよろこぶところがいい」

「いっしょなら、なんでもうれしいわ」

義勇さんはわたしのあごを子猫をあやすように撫でて、くちびるにひたひたと触れたあと、頬に軽いキスをくれた。わたしはたまらなくなって、義勇さんの頬を両手で包み、くちづけた。ちゅっと音が鳴る、陽気なキスだった。
大抵のひとは知らないが、義勇さんはほんとうに、ほんとうにやさしい顔で笑う。
あと二時間で日付が変わる。明日は義勇さんの誕生日だ。


わたしたちは早朝に目覚め、起きがけに白湯を飲み、蔦子さんからいただいた、きのこのマリネと、パプリカとヤングコーンのピクルスを乗せたサラダを食べた。
ダイニングテーブルには、ピンクのガーベラと白いスイートピー、そして薄いグリーンのラナンキュラスを、まるっこいかたちになるように花瓶に挿し、昨日のうちから飾ってある。

「お誕生日おめでとう、義勇さん」

本日何度目かわからないその言葉にも、義勇さんはあきれずにほほえんで返してくれる。

朝食をサラダのみで済ませたのは、老舗の玉子焼き屋さんで定食を食べるためである。
そうしてわたしたちは、早々と家を出た。
お気に入りの服を選んだが、今日はたくさん歩く予定なので、足元だけが変にカジュアルになった。
あべこべな感じだけれど、義勇さんは「かわいいよ」と言ってちょっぴりニヒルに口角を上げた。


義勇さんの案で、海への到着は日暮れ前を目安にして、それまでは神社仏閣めぐりや、森林沿いのうつくしい道みちを散策して過ごすことにした。

春めきはじめた山には、もう梅と桜が咲きはじめていたが、つぼみもまだ多く、灰色の葉をつけたさみしげな木々もたくさんあった。痩せた木の節は、粉がふいたように白くなっていた。

「歩いているだけで、しあわせ」

わたしは、なんのひねりもないがしかし、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。伝えたいと思って声に出したというよりは、口をついて出てしまったという感じだったけれど、義勇さんはとても幸福そうに口許をゆるめた。

「おれも」

義勇さんはこちらを向かなかったけれど、その横顔がとてもやさしくて、うつくしくって、わたしは泣き出したいような気持ちになった。
わたしが突然泣いても、義勇さんは困惑もせずに、しずかに寄り添ってくれる。ずっとずっといっしょにいられたらいい。



「きれい。晴れてよかった」
「うん」

ローカル線を使ってお気に入りの眺望スポットのほうへ向かうころには、西日が広大な海の端から端まで、惜しみなく降り注いでいた。
わたしたちはちいさな緑色のレトロな電車の、もちろん海の見えるほうへ乗り、果てない海を見つめていた。

「海辺は風が強い」

降車すると義勇さんはわたしにノーカラーのMA-1を着せてくれた。グレイじみたカーキ色の、すとんとしたラインのきれいなもので、義勇さんが着ると、とても魅力的に見える。
わたしは足元と、加えてオーヴァーまでもがカジュアルになったため、もはやそういうファッションのようになった。キャップを持ってくればよかったかしら、と思っていたら、義勇さんが「キャップがあれば尚よかった」と言ったので、うれしくて笑顔になった。


日没前後の海は、おそろしくうつくしかった。
風が強く波の高い日だったため、海辺へ続く階段は閉ざされており、重なりあう平たい畳岩や、その上に鏡のようにうっすら張られた水、そのはざまの潮だまりなどを、わたしたち観光客は上からただじっと見下ろしていた。
ひとの気配のない海岸は、しずかで、厳かで、息を飲むほどうつくしい。
降り注ぐ茜色の陽を貪欲に、時間をかけてすべて飲み干してしまった水面は、高い波の打ち寄せるあいまに、時折、おどろくほどしずかな凪を見せた。
日の沈んだ後も、あたりはしばらく薄明るかった。強い風にすすきが折れそうなほど傾いでいて、海辺にはアオサギが二羽立っていた。
ここはロマンティックというよりも、うらさびしい雰囲気がしており、そこも大いに気に入っている。

「こういう景色をいっしょにたのしめるところや、こういう時間をたいせつにしてくれるところがすき」

「どうした、いきなり」

「だいすき」

落日後のうつくしい海岸で、わたしたちはキスをした。そういうカップルは、ほかにもいた。


そのあとは、海の見えるレストランで食事をした。海の見える、といっても夜なので、暗闇のなかで白い波──あるいは街灯に照らされてオレンジ、またあるいはイルミネーションに照らされて青のが──ゆらゆらと動くようすしか見られなかったけれど、見つめていれば潮騒が聞こえてくるような気がして、わたしは窓と、窓に映る義勇さんを何度も何度も、繰り返し見つめた。
海はやはり、ロマンティックというより、うらさびしい感じだった。

「夕方や夜の海って、さみしい感じがして、すき」
「わかるよ」
「泣きたくなるの」
「うん」

とほうもなくおおきな海を前にすると、自分がひどく無力であると感じるし、同時に、圧倒的な包容力で見守られているのだという気にもなる。どこか懐かしい気持ちになって、泣き出したくなる。
義勇さんといると、湧き水のようにこころのうちからあふれて止まらない愛情に困惑してしまうことがある。海への感情は、そういうときの気持ちとどこか似ている。
圧倒的な存在への愛や、畏れや、それを前にしたときの無力感、そして手に負えないほどの幸福とある種の安堵で、わたしは泣きたくなってしまうのだ。

「今日、とってもすてきないちにちでした。ありがとう」
「おれのほうこそ。たのしかった」


電車に乗っている途中、急激な眠気に襲われたが、マンションが見えた途端、わたしたちはふたりともにわかにしゃきっとなりだした。二十三時ごろで、空気は冷え込んでいた。

「なまえ」

家の鍵を開けようとした瞬間、義勇さんがわたしの名前を呼んだ。呼び止められた、と感じたので、わたしは手を止めて義勇さんを見つめる。

「結婚しよう」

吹きさらしの廊下に、義勇さんの声はよく響いた。コンビニに行こう、とでも言うみたいに、あっさりとした声色だった。
わたしは頷いたけれど、うまく声が出せなかった。
もう二回、こくこくと頷きなおして、しぼりだすように

「うれしい」

とつぶやいた。

うろたえて泣いているわたしの横で、義勇さんは家の鍵を開け、なめらかな動作でわたしの手を掴むと、そのまま室内へと導いてくれた。

うつくしい海辺でも、景観のよいレストランでもなく、マンション――それも、廊下である――なのが、とても義勇さんらしいと思った。飾らないひとで、そういうところが、わたしはたまらなくすきなのだ。

靴を脱いで義勇さんの背中を追って、ダイニングテーブルの横で、ようやく胸に飛びついた。
義勇さんはわたしをしっかと抱き返して、そのままわずかに身体を左右に振った。あやされるようにして、わたしはめまいを起こすほどの猛烈な幸福を噛みしめた。
電気は消したままだったが、月あかりの強い日で、部屋はやわいすみれ色だった。