花棲む瞳

産屋敷邸へ行ったあと、彼女が高熱を出した。
咳をともなう体調不良だったため、急いで医者を呼んだが、テーベーの心配はないので、薬を飲んで安静にしていればすぐによくなるとのことだった。

鬼から守ることができても、病となれば別である。病魔の前では、おれはたちまち、無力なでくのぼうに戻ってしまう。
彼女が遺書を差し替えたいと言い出したときには、そんなものは書かなくてよいと言ってやれないことが悔しかったが、今は、なす術をもたない無力さと、強ければ守れるなどと思っていた己の不遜さが、はずかしかった。
武力を高めることは、武力を高めることでしかない。それ以上の意味はなく、全知全能に近づくことでは決してない。
どれほど強くなっても、彼女を完全なる安全な場所へ連れてゆくことはかなわない。

「なまえ」
「義勇さん、おかえりなさい」
「ただいま。体調は」
「熱はすこし引いたように思います」

運悪く司令が入ったため夕方に家を出て、ようやく帰路についたのは、もうすっかり夜の深い時間だった。
彼女は襖を開けて柱に寄りかかり、重たそうに首をもたげつつ、月見をしていた。まだ大分悪いように見えた。
時計がちょうど朝の二時を打つ。

「寝てなかったのか」
「布団や浴衣が肌に触ると、ぞわぞわと痛い感じがして、起きているほうが楽だったんです」
「すこし寝たほうがいい」

額にくちづけを落とす。湿った肌のあまやかなかおりがする。

「薬は」
「食後に飲みました」
「いい子だ」

彼女と場所を代わり、敷居の上に座布団をふたつ置き、柱へ背中を預けるかたちで座る。
彼女は俺の胸にぴったりと寄り添い身体を預けると、そのままここちよさそうに瞳を閉じた。
風の穏やかな夜で、部屋のなかはとてもしずかだった。

「苦しくないか」
「うん、あたたかい」
「すぐに治るよ」
「うん、ありがとう。だいすき、義勇さん。いいにおいがする」

彼女はその後すこしのあいだうにゃうにゃとなにか喋っていたが、だんだんとあまえた弱々しい声になり、声はやがて、しずかな寝息に変わった。

あたたかい。ちいさな身体が、腕のなかでとくとくと脈うっている。
庭先のあざやかな牡丹が、絵のように動かないまま、そっとそこにいる。


彼女はきっと、ひとりでも生きていかれる強さを持っている。咲き誇る花のようにしなやかな強さ。そのうえで、おれの恋人という役割をあまんじて受けいれ、となりでほほえんでくれているのだ。
おれが彼女を守る存在であり続けられているのは、彼女のそういったやさしい打算によるものである。
あいしている。深く。強く。
そして、おなじくらい、あいされている。
おれがいなくなったとき、彼女は天性の強さを取り戻すだろうか。
願わくば、どこまでも、どこまでも、行けるところまで行ってほしい。生きていてほしい。

遺書は、自分も新しいものへ差し替えた。
無事に、先に、死なせてほしい。

額に手を当てる。熱は幾分か下がったようだった。



先に行くことを、ゆるしてほしい。
ひとりで泣いていないことを、やさしいひとと共にいることを、切に願う。

我欲を通し、ふつうの世界へ返してやれなかったこと、申し訳ない。

手にする資格のないものと知りつつ囲い込み、手放せなくなったことを、至極愚かであると承知のうえで言うならば、共にいられて幸福だった。過ぎたる幸福だった。

おれがいなくとも、おまえの愛した物々のうつくしさは変わらない。花も星も海も、うつくしいままそこにある。
瞳を曇らせずに、また、さまざまのものを愛して、よいものを感じ、すこやかに、生きてほしい。
己を責めず、胸を張って、生きていってほしい 。