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彼女の日記は産屋敷家に保管されており、年に一度の神楽の折には、祭壇のわきに添えられる。



日記をつけることにいたしました。

本当は、すきと思ったその日からはじめるなどすれば、このくだらない独白にもロマンチズムの箔がつき、すこしはおもしろいものとなっていたのかもわかりませんが、あいにくのところ、はたしていつ自分があの方のこころへ落ちてしまったのか、わたし自身にも、まるでわからないのです。

しかしながら、すこしでも、とにかくすこしでもなにか気持ちのよいはじまり方をと思い、七月一日──新しい月のはじまる日。それも、かがやかしい季節の──を選んだのですが、彼に会ってからというもの、なんでもかんでもすべてのことがらを、幸先がよいやら悪いやらと、彼の身や、この気持ちのゆく末に照らしあわせて浮いたり沈んだりと忙しなくしていることは、すこしばかり、考えものであります。

(七月一日)



依存はおんなをだめにします。
わたしは、自分の至らなさをあなたのせいにしたくはないのです。そして、誰かに、あなたに、そう思われることも、絶対にいやなのです。
義勇さん。
今日もどこかで、かなしい顔をしているのかしら。そこにいないようなふりを、しているのではないかしら。

(九月十日)



花が咲くと、義勇さんを思い出します。
無口で、うつくしい、世界を彩るひと。

(九月二十二日)



蝶屋敷でお目にかかる。
どこかお怪我をされたのかと慌てるわたしに、義勇さんはたじたじ。ふたりでなぜか坪庭を見つめる。
「診察室の梅の枝」
義勇さんの声は、冷たいような、あまいような、不思議な響きをしている。
「わたしが用意したんです」とわたし。
「そうだと思った」と義勇さん。
わたしはそれきりうまいことも言えずにうにゃうにゃ笑うだけだったけれど、声色の嫌味のない感じからすると、それほど悪い意味ではないと思われました。
むしろ、嫌味な感じであれば、容易に切り込めたのだ。そうでないと思ってしまったから、わたしは黙ったのです。

(二月八日)



花を贈ってくださいました。
一輪の洋花で、鴇色のうすい花びらが八重になった、うつくしい花金鳳花。
「どうしたのですか」と聞くと「似合うと思った」とだけ低く答えて、さっと踵を返して行ってしまう。

一瞬触れた指先が、思いのほかかたく、武人の指であると感じました。
とたんにはずかしくなり、わたしは勢いよく自らの手を引き戻して、ふと視線をはずしましたが、義勇さんは、なにもかも気にもとめぬといったごようすで、わたしの身体とこころは、ぽつりとそこへ置き去りにされてしまうのでした。

(三月十日)



海がすき。川も、滝も、池も。透き通る水が。
月や、夜や、星や、雪や、花々も。

うつくしいもの。
どこまでもきよらかで、おおきく、ふくよかで、やさしいもの。
それらに対する愛。畏れ。祈り。
うつくしいものを見て、それらを愛するとき、わたしはあなたを思い浮かべるのです。

日々のなかで、義勇さんがわたしのことを思い返す瞬間が、ほんのひとときでもあるとしたら、とてもうれしい。
たとえ、まるまる太ったことりを見たときや、ふてくされたこどもを見かけたときであるとしても。

(六月十六日)



横に立っていた義勇さんがとても近く、そこからほのかに発せられるぬくもりもわかるようでした。
首をほんのすこしでも傾げば、その腕にもたれかかるようになるくらいの、ごく近い距離。
しばらくのあいだは、ただじっと前を向きながら、おそばにいる義勇さんの気配を感じていたけれど、勇気を出して、ちょんと寄りかかってみる。
すると、義勇さんの身体も、ほんのすこしこちらへ傾いだので、わたしたちはやわく寄り添うようなかたちになって、空の色がかわりはじめるまで、じっとそのままでおりました。
おいやでないの?とは聞けぬまま、その日はそのままおわかれ。

幾重もの布をへだててなお伝わるそのやさしいぬくもり。
じかに感じれば、一体どれほどの熱で、わたしのからだを焼くのでしょう。

(九月二十七日)



窓の外を眺めていると、義勇さんがあまえるように、わたしの肩へ顎を置く。
そのまましばらく、硝子を伝う雨だれのようすを、ふたりで眺めておりました。

夜、部屋にひとりになったので、このままでいいの、と一度つぶやいてみたら、とまらなくなった。
このままでいいの。このままで。

(日付不明)



そのくちびるがわたしの口もとを掠めたとき、みじめで、泣きたくて、たまりませんでした。
わたしは実際に涙をこぼしながら、それでも懸命に、義勇さんのお姿を捉えようと、震える瞳を開いておりました。
明日には会えぬかもしれないひと。
わたしはあなたを困らせたくない。

(日付不明)



都合よく、曖昧に、しかし、わたしの一切を所有していてほしいと願う。

(日付不明)