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ひどい夕立だった。大きな河が天ではじけたように激しく、妹と共にすこし立ち往生したが、予定通り墓参りをおし進めることにした。
両腕いっぱいの花束が雨にぬれ、ずしりと重たかった。

歴世の柱の墓前に先客がいることはめずらしくなかったが、今日のはようすが違っていた。

彼女は、自分の身体を、降る雨に無防備にさらしたまま、まるい洋傘を墓石へかたむけて立っていた。
頭からつま先までをしとどに濡らして、身体のすべてで泣いているように見えた。

彼女の深いかなしみと、愛情と、あの家の、やさしいにおいがした。
義勇さんのすがたが思い出されるようだった。

幸福そのもの、といったふうに寄り添いほほえむふたりは、もう見られない。

(八月二日)



彼女の日記には抜けたページも多く、数頁ほどごっそりと抜け落ちた箇所に、一枚、半分に折りたたまれた紙が挟まれていた。
どうやらそちらも日記のようで、筆跡から、彼女とは別の人物のものであるとひと目でわかった。
力強いがしかし大きさは均等で、どことなく繊細なかんじもする文字だった。

彼女の恋人が亡くなったあと、共通の知人が書いたものらしく、なぜここに挟まれているのかはわからなかった。
そっと元に戻し、おれはまた、彼女を日記を読み進めた。



日の照りながら降る雨に打たれて、義勇さんは、目元のみをかすかにほころばせ、こっそりとこちらへほほえみを渡してくれたので、わたしもうっとりと瞳を細めてこたえました。

知られてはいけないことというように、ひそやかに交わされたあいさつ。
愛しあうことの憚られる身分。
忘れられない風景。

(日付不明)



新しい木のかおり。やわらかく差すこもれび。磨き上げられた床板のはね返すきらめき。
この屋敷の持つおだやかな雰囲気が、義勇さんは本来、似合うひと。

わたしがおもてへ出て、すべての苦しみを取り去るちからを持っていたのなら。
あなたはここで待っていて、と言えたのなら。

このごろわたしは、あなたを思うと、とてもせつなくて、やりきれなくなる。
すべてをひっくり返して、やりなおしてしまいたくなる。

うまれも、性別も、みんなとっかえて、あなたをこの果てない地獄から救い出すことができたのなら。

(日付不明)



あいしていると聞くたび、わたしの身体とこころを隅から隅まで満たしてもなおありあまる、そのあざやかな幸福が、涙となり、次から次にと、こぼれ落ちるのです。

うっとうしいという素振りひとつ見せずに、そばにいてくれる、あなた。

(一月七日)



炭治郎くん、見える。
気持ちのよい子。よい風を持っているひと。

わたしがいなくなってもだいじょうぶ、というふうに思えた。
義勇さんは、たくさんの愛に囲まれたひと。

(十月十四日)



名誉の死。
しずかな終わり。
地獄からの解放。

わたしが義勇さんから取り上げてしまったすべて。思うこと、願うことの自由。選択の自由。

わたしの存在が、義勇さんを奈落の底に縛りつけている。
終わりにだけ待つ幸福を、わたしが汚してしまった。

わたしさえいなければ、来る日までのわずかな時を、義勇さんは、贖罪のよろこびを抱いて、生きたでしょうか。

(日付不明)



「どこへ行きたい」と聞かれたとき、逡巡のための時間があったなら、わたしの答えも、違っていたでしょうか。

海辺のしずかなまちでくらしたい。
今度母国へ帰るという伝道師の船に乗り込んで、とつ国へと逃れたい。
逃げて、逃げて、逃げて。
そうして数年間。せめてあと数年間、お互いのことのみを考えて、幸福の限りを味わいたい。
でなければ、しんでしまいたい。

すべてうち捨てて、ふたりきりで生きるとしたら、誰がわたしたちをうらみ、憎み、裁くのでしょう。
わたしたちは、そのうちのなにが許せずに、おめおめと、また地獄へ戻ってきたのだろうか。

この際、わたしのことなど、どうでもよいのです。
ただ、あなたが幸福になる、最善のみちを選びたい。

(日付不明)



おろかな考えが去来する。
おろかでも、真実。
わたしの真実の声。

(十月二十九日)



すがたが消えても、苦しみは消えない。
時間が癒してくれる傷は、あると思う。
しかし、それでは、時間のないものたちは、一体どうすればよいのでしょう。

生き残ってしまったと、そればかり思う。
ほんとうは同じくらい、今ふたりでいられることがしあわせなのだけれど、それがとても悪いことのように思えて、苦しい。苦しみは、消えない。

(四月五日)



宇髄さん、見える。
めずらしい西洋酒を持って来てくださって、三人で痛飲し、ずいぶん気持ちよくなったので、日暮れごろに、宇髄さんの奥さま方を連れ立って、不死川さんのところへどやどやと押しかけた。

別の世界のできごとのように、賑やかで、楽しかった。

真夜中にふらりと出ていった宇髄さんは、一升瓶を持って帰ってきた。
なじみの小料理屋の戸をたたき、酒を分けてもらったのだという。
夜道を丸腰でふらついてもよい時代の、なんと便利なことか。

空が白みはじめたころ、仏間のふすまを開け放し、続き間にして、皆で雑魚寝。

近ごろ、義勇さんは、眠っている時間が増えたように思う。

(六月十六日)



義勇さん、風邪を召される。
たまご味噌とおねぎのおかゆが食べたいと仰るので、用意をすると、一口二口お召し上がりになって「うまいよ」と笑ってくださった。

昼過ぎになると具合が一層悪くなって、咳も出てきた。
わたしがあんまり心配するので、義勇さんはわたしを宥めるのに忙しくって、だんだんとどちらが看病しているのかわからなくなってしまう。

お医者様を呼んだり、手ぬぐいを水にひたしてあてたり、バタやミルクでスウプを作ったり、バナナなどを買って来たりしましたが、夜になっても、ぜえぜえと苦しそうな呼吸音が続いて、その横でわたしが絶望的な顔をするので、義勇さんは白い頬をゆるめて「どちらが病気かわからない」とちいさく笑っていらっしゃった。

わたしはこれ以上なにもできないことが悔しくて、歯痒くて、一生懸命義勇さんの手を握ったけれど、彼のぬるい手のひらは、わたしがどんなにがんばって握っても、わたしの体温以上にあたたかくはならないのでした。

(七月一日)



手を繋いで、海辺を歩きました。
だいすきなまちを歩いてわたしは上機嫌で、義勇さんは何度も、あいしていると言ってくれました。
よいお宿に泊まり、上等の食事をとり、お酒をいただき、それでもなお、使いきれないほどのお金を義勇さんは持っています。
お命代なのです。
このお金があればわたしたちは一生働かずにくらしてゆけるけれど、貧乏でも苦労をしても、ふたりでずっと生きていられるほうがよかった。

時間は買えない。
いのちに値段はつけられない。
贅沢をするたび、わたしは言いようのないくやしさのようなものを感じますが、しかし、今日明日生きてゆくのにも、やはりお金はかかりますし、ずっとぴったり一緒にいるには働くわけにもゆかず、結局、甘んじて大金──と言わざるを得ないお金。しかし、義勇さんのいのちを考えれば……──を受け取るよりほかなかったのです。

今ある幸福を噛みしめて、感謝を忘れず、つつましやかに生きてゆくことの、難しさ。
すみません、と、方々へ謝りたくなる。

(日付不明)



どれほど都合よく解釈しようとしても、どうしたって飲み込むことができませんでした。
あなたがここにいるのに、見て、触れられるのに、この手を離さなければならないということ。
あなたを諦めなければいけないということ。目の前にある、あなたを。

なにもかもを(運だとしても)乗り越えてきたというおごりが、あなたがふたたび笑いかけてくれるのではないかという、おろかな望みを払しょくさせてくれなくて、生きたまま身を焼かれるような苦しみに、わたしは、わたしの業の深さを思い知ったような気持ちでした。

身を引くことの覚悟ができていた時期もあるはずなのに。

(日付不明)



おろか。おろか。欲しがっていないという顔をして、口では許されないなどと言いつつも、誰よりも幸福になりたかった、わたし。

(日付不明)



すきだったみなとまちを海沿いに歩きながら、耳に残る、あなたの声をたどります。

浜よは行かず、磯づたふ。
あなたのたましいも、わたしたちの好いたこの海を行き、のぼっていったのでしょうか。

世界がすっかり色をなくしてしまったように思うのに、ここへ来るたび、わたしの意識はあざやかになり、海の青や、波うつ光や、水と光の混ざりあうさざめきや、うら寂しいまちなみのうつくしさが、身体じゅうにどうっと流れ込み、こころの奥底を震わせるのです。

あなたを失ったのに、あなたがいないのに、あなたの守った世界は、今日も、どうしようもなく、うつくしいのです。

(日付不明)




日記を持って帰るかと聞かれたが、断った。
おれも、おれの恋人も、日記の彼女たちとは別の人間だ。
ここに置いてあるのがよいと思った。ここにはほかにも、鬼と戦ったひとびとの遺した手紙や日記や遺書などが保管されているという。
神楽や、平和を祈るひとびとの思いに乗って、彼女の言葉はきっと、伝わるべき彼女の恋人のもとへ届くだろう。

閉じるとき、一枚、赤茶けた紙が落ちた。
その筆跡を見て、すこし驚いた。自分の文字に似ていたのだ。

もうすぐ帰る彼女に会いたくなった。
愛の言葉を贈りたいと思った。
彼女はきっと、驚いて、はにかんで、ゆめのような笑顔を見せるだろう。
手に取るようにわかるのに、愛を言葉には、あまりしてこなかったように思われる。

電話をかけると、数コールですぐに繋がった。
彼女はおもしろいほど驚いていて、しかし、声があかるく弾んでおり、よろこんでいるようだった。



いつかこの日記が、彼女の手に渡るときが来るだろうか。
記憶は失われるものだ。
肉声を残すことは叶わなかった。

せめて文字で、残しておこうと思う。
あいしていると。

目で見て、指でなぞれる、生きた証を。

畢生の恋人。
会えてよかった。

(日付不明)