ミッドナイト・スワロー

真紅のカーペットが敷かれたホールは、入り口から見て右側と奥側の壁におおきな掃き出し窓が並んでおり、その二面のちょうどつなぎ目の角のあたりに、黒のグランドピアノが置かれていた。

気なれないドレスは窮屈だった。裾を持ちあげる位置や足の動かしかたなどで、うつくしさを図られるらしかったが、わたしにはさっぱりだった。
ここにいる誰にどう思われようが、それもさっぱり、どうでもよいことだった。
知人に連れられて来たサロンで、わたしはひどく、退屈であった。

ひと口飲んだだけのシャンペンはもうとっくにぬるくなっているが、飲み切る気も、グラスを下げる気もなかった。ピアノの音にあわせて、琥珀色の液体をくるくるとまわした。
持ち歩くのが面倒なので、携帯はかばんにいれたままクロークへ預けてしまっている。

「踊る?」

とても女性を誘うような言いかたではなかったので、反応が遅れた。すこしの間のあと顔をあげると、うつくしい男性が立っていた。

「ダンスなんてできないもの。したことがないんだから」
「意外となんとかなるよ」
「できたって、わたし踊らないわ」
「そう」

タキシードの彼は、抑揚のない声でぽつぽつと言葉を漏らすと、わたしの横に腰をおろし、長い足を組んで、つまらなさそうな面持ちでシャンペンをひと口飲んだ。
ホールでは、着飾った男女が慣れたかんじでダンスをこなしている。

「あなた、こんなところにいていいの?わたし、ジゴロを買いに来たんじゃないし、あいにくお金なんてないのよ」

「いいよ、別に。稼ぎたいわけじゃないし、ちやほやされたいわけでもないから。疲れたから休んでたいだけ。付き合ってよ」

彼はうつくしかったが、しかし、若いのに、くたびれた感じのするひとだった。ジゴロなんてやっているからだろうか。彼らは、この店からの多くない給金と、裕福なマダムからの援助で生きている。

「あなたの客に嫉妬されるのはごめんだわ」
「ぼくには固定客がすくないから。たぶん」
「たぶん?」
「記憶をキープしていられないんだ。だからお客さんの顔も名前も、すぐ忘れる」
「冗談?」
「ほんとうだよ。全部を忘れるわけじゃないけど」

彼は浅葱色の毛先を指先でもてあそびながら、なんでもないこと、というふうに呟いた。
わたしはなんと返したらよいのかわからなくて、飲みたくもないシャンペンに口をつけた。
ぬるく、炭酸は苦く、抜けかけていた。後味にへんなあまさがあり、まずかった。

「別に不幸じゃないよ。人生狂わせるほど誰かを溺れさせることもないし、騙し続ける罪悪感なんかとも無縁だし。ぼく自身は、その日くらしていければ、それでいいから」

「記憶の取捨は、脳内で重要度によって振り分けられているのかしら」

「なにを忘れてるかがわからないから、答えようがないけど、店の存在やマスターのことは忘れないから、そういうことになるのかな」

「じゃあ、わたしは失われるひとということね」

「さあ」

彼はわたしのぬるいシャンペンを無理やり奪い、ボーイに下げさせた。ほどなくして、ジャスミンティーが運ばれて来る。

「ねえ、ほんとうにわたしでも踊れるかしら」

「ぼくは相手しないよ。さしづめ、後腐れないならワルツなりタンゴなりセックスなり、踊ってみたくなったんでしょ?利用されるのはごめんだ」

「そういうつもりは……」

言い淀んでしまったのは、きっぱりと否定しきれるほど明確な理由がなかったからだ。
ふいと視線を外してシャンデリアの下あたり──つまり、なにもない空間──を見つめる横顔は、まるで作りもののようだった。すうっと通った鼻筋に、薄いくちびる。白い肌。彼のうつくしさは、しかし、すこしのぬくみも感じさせないのであった。すりがらすのような瞳をしていた。

「きみがぼくの記憶に居座れるようになったら、そのときはダンスでもなんでも、相手をしてあげる」

照明がしぼられて、ピアノのヴォリウムが上がる。ひとびとは熱量をあげて情熱的に見つめあい、ダンスを続ける。

「ぼくはここからぼくを連れ出してくれるひとを探してる。違う生きかたをくれるひとを」

じゃあね、と呟いて、彼は暗いフロアのなかへ消えて行った。
今日一日、彼を生かしてくれるひとを探して。
今日一日、彼を生かし、そして明日には忘れられるひとを。

知人に連れ添って店を出たあとも、わたしはずっと、瞳を気怠げにゆるく開けた、彼の横顔を思い出していた。名も知らぬ彼の、なにを見つめるでもない、あの瞳を。