9:夕立に隠して

バケツを引っくり返したような豪雨だ。
おおきな雫をひとつ認識してから道路の色がすべて変わるまでは、驚くほどあっという間だった。
長い前髪からとめどなく滴る雫と、絞れそうなほどに重たく濡れた服が鬱陶しい。
靴なんかは、もう履いているのかいないのかわからないくらいにずぶ濡れである。

テスト採点のため今日の残業は長丁場になるからと、校舎から徒歩十分ほどの弁当屋に向けて気分転換も兼ねて歩きだした矢先のアクシデントだった。
大人しく車を使っていればよかったのだとこころのなかでぼやくも、そんなことなどはもう後の祭りである。
引き返そうかと迷っている間にも無数の雨粒に打たれてしまうものだから、空きテナントがほとんどを占める、古い商店長屋の軒下へと逃げ込んだ。


数件分離れたところに、しとどに濡れる人影を見つけた。
所在なさげな面持ちでワイシャツの裾を捲りあげ、ちいさな手でちまちまと絞っている。

「みょうじ」

長屋の低いオーニングを叩く雨音は、頭上近くで鳴るため、酷くうるさかった。
すぐ隣に立つまでおれの存在には気がつかなかったようで、驚いた彼女はわっと短く声を上げた。
顔を上げるのと同時に、細かい飛沫が散る。
まつげまでもが濡れていて、白いシャツは透けて張りつき、肌や下着の色をあらわにしていた。

「び、びっくりしました」
「奇遇だな」
「雨、おさまるでしょうか」
「夕立だ。向こうの空が明るいが、どうだろう」
「先生はどこへ行く途中だったんですか」
「向こうの弁当屋。お前は」
「スーパーです。部室のスポーツドリンクの粉を切らしてしまって」

みょうじは鞄から厚手のハンカチを取り出すと、おれの前髪と横髪を丁寧に拭いていく。
自分で使えというおれの言葉を曖昧な笑みで都合よくスルーして、彼女はおれの髪に、肌に、やわらかな布を滑らせていく。


「ねえ冨岡先生、先生は、どうして先生になったんですか」

彼女の声は、激しい雨音のなかでもなぜだか鮮明に聞こえた。

教師を目指した理由は、他人にはほとんど話したことがなかった。
コミュニケーションが得意でない自分には、とことん向かない職種だと思う。
それでも、いちばんやりたいことであったし、思いの強さが変わることもなかった。


「未来を担うこどもたちが、折れたり歪んだりせず健やかに成長できるよう、守ってやりたいと思った。その成長を見守りたいと」

「だから、先生の言葉は、厳しくてもまっすぐなんですね。冨岡先生が先生で、わたし、よかった」


いつものようにごまかさず、ほんとうのことを言ってしまったのはなぜだろうか。
似つかわしくない夢を笑い飛ばすようなやつではないだとか、そんな理由だけで明かしたことなどは一度だってなかったはずだ。自分自身の発言にひどく驚いたが、後悔はなかった。

雨脚は弱まる様子もなく、激しさを増すばかりだった。
自問自答の結論も、結局出ないままである。
彼女はすっかり濡れきったハンカチを一度固く絞ってから、額と前髪をぬぐっていた。

彼女といると、喋るも黙るも自由だという気がした。
言葉もこころも深追いをせずにほほえんで受け止めてくれる。
とりとめのない言葉も、うまくかたちにならなかった感情も、彼女はそっとすくい上げて、うつくしい言葉に昇華するのだ。
彼女の教師であることを、すこし誇りに思った。
彼女のこころが折れないよう、汚されないよう、守ってやるのだとも。

「一度戻ろう。風邪を引くから着替えたほうがいい」

ちいさな身体を抱き込むようにして、脱いだジャージを傘代わりに羽織り直す。
彼女はおれの腰元に片腕をまわし、もう片方の手のひらでおれのシャツの胸元をやわく握った。
その指先が震えている気がして見下ろせば、耳まで真っ赤に染めてくちびるをきゅっと引き結んだ、思いもよらぬ、照れた顔が見えた。
彼女を内側から打つ鼓動が、こちらまで伝わってくるようだった。