8:ドリーム・バイ・デイドリーム

十三のころ、死にかけた。

車は急に突っ込んできたし、確かに息が止まるほど驚きはしたけれど、死んでしまうこと自体に対しては、すこしの疑問も抱かなかった。
こういうふうに死ぬのかと、そんなことだけを思った。
遠くない未来に、自分は死ぬのだと思っていたからだ。
すこしでも通報が遅れていれば死んでいたと医者は言った。
救急車を呼んだのはなまえだった。

彼女との状態をあえて言葉にするならば、取りつく島もない、といったところだ。
彼女には隙がない。滑り込む余地がないのだ。


「送ってやれなくてすまない」
「錆兎くんが謝ることないよ。バスで行けるもの、わたしは全然平気。体調はほんとうにだいじょうぶ?」
「ああ、寝れば治るさ」
「うん、じゃあしっかり休んでね。お大事に」

電話越しのこもった声はあまえて聞こえて、すこし気分がよかった。
守ってやりたいおれの気持ちとは相反して、彼女がおれたちに寄りかかってくることは一度もなかったからだ。
彼女にとっては、俺も炭治郎も、皆等しく、守るべき存在なのだと思う。
単に年上だからと気張っているのか、元からの性分なのか、それともこころのどこかに眠っているはるか昔の記憶を引きずっているからなのか、どういう理由からなのかはわからなかった。


おれには、前世の記憶がある。
前世のおれは鬼に食われて十三で死んだ。頬には傷があった。孤児だった。
前に関わりがあった人間のことは、そのひとに会ってから思い出す。
義勇のことはすぐだった。
歳が随分と離れてしまったことが悔しくて、しばらく避けた。
鱗滝さんを思い出すのも早かった。

残してきてしまった義勇のことが気がかりだったのだろう。
おれの魂は肉体を離れたあとも随分長いこと現し世に囚われていたらしく、自分のことながらにわかには信じられないし薄ぼんやりとではあるけれど、おれのなかには、死後に見たものごとの記憶も残されていた。

炭治郎や真菰を思い出すのには若干の時間がかかった。
なまえのことを思い出すのには、もっと長い時間がかかった。
なまえとだけは、生前に一度会ったきりで、それ以外の関わりはまるでなかったからだ。
生涯義勇に寄り添い、義勇のこころを救ったおんなだった。
義勇のおんなというぼんやりとした輪郭のなかに彼女の姿が重なるまでは、半年を要した。


過去に囚われて、それだけを考えて生きているわけではないつもりだ。
それでも、深く思い出してしまうとやるせなさに押しつぶされてしまいそうになるし、おれの人生におけるいちばんの願いは、義勇がなるべくつらい思いをせず、しあわせに生きていくことだった。


チャイムが鳴る。
モニターには、重たそうに歪む半透明のビニール袋を腕に下げて、落ち着かない様子でそわそわとしているなまえの姿が映っていた。
サボりだと伝えておけばよかったかなどとぼんやり考えながら、平たいサムターンを回す。
裸足で踏んだ玄関のたたきが冷たかった。

「サボタージュ中の錆兎くんに差し入れです」

そう言って笑う彼女は、努めて明るく振る舞っているようだった。


珈琲を入れて、差し入れのケーキをふたりで食べる。
適当なワイドショーを見て、なんとなく会話をした。
休んだ理由には触れられないままだった。
世話になった孤児院に行くつもりだったと話すと、いっしょに行きたいと言われた。


こどもたちと遊ぶ彼女の顔は、おれや炭治郎と接するときの顔によく似ていた。
母のような、姉のような、慈しむようなほほえみ。
おれは、晴れた日に凪ぐ海のように穏やかな彼女の笑顔がすきだけれど、もっと余裕のないさまを見てみたいとも思う。
助けてくれた彼女に、毎日病室に通ってくれた彼女に、はるか昔、おれの残した義勇のこころを救ってくれた彼女に、恩を返したかった。
頼ってほしかった。
否、そんなことは体のいい言い訳である。
今となっては、すべて。

好いているのだ、ずっと。
彼女を。義勇のこころを救った彼女を。


「孤児として育ったことも今までの人生にも、遺恨はない。なにかをやり直したいという後悔もない。それでも、生まれたとき、あるいは、生まれるよりももっとずっと前の段階で失敗してしまっている場合には、どうしたらいい」

おれの質問の意図がわからない彼女は、くちびるをうっすらと開けたはいいがなにも言えないまま、不安げに瞳を揺らしていた。
突風が吹いて、彼女の髪の毛を荒々しく乱した。

彼女は義勇の前でだけ、丸腰のこころでいるように見える。
素直な気持ちで寄りかかれているように。
義勇もまた、彼女の前では随分とやわらかい顔をする。
引き合わせたことを後悔はしていない。
今度の人生でも、義勇が彼女と結ばれればいい。
その思いは変わらない。
きっと、ずっと、変わらない。

じゃあ、来世はどうだろう。
来世になれば、おれもフェアな気持ちで彼女をすきと言えるのだろうか。
おれだけが遅れて生まれてきてしまって、不平等さやどうしようもないやるせなさを感じたり、そんなことを思う自分の狭量さに嫌気がさす、そんな苦痛からも開放されているだろうか。


彼女はなにも言わなかったし、おれもそれ以上はなにも言わないことにした。
前世のことは誰にも話さないと、そう決めている。
暮れなずむ町を、彼女の手を取って歩いた。
彼女はゆるくほほえんでいたけれど、手を握り返してはくれなかった。