10:うたかたモナムール

わたしたちが黙々と宿題を片付けているあいだ、冨岡先生はいつも、本を読んだり、デスク型のパソコンラックに向かって事務仕事をしたり、ベランダに出てぼうっとしたり、ラジオを聞きながら洗濯物を畳んだりしている。
わからないところを聞けばすぐに教えてくれるけれど、積極的に話しかけてくることはない。

そして集中力がきれてしまうころ、決まってなにか飲み物を持ってきてくれるのだ。
それは珈琲だったりお煎茶だったりココアだったり、はたまた紅茶だったりとその日によってまちまちで、そのつかの間の休息時間は、わたしの毎回の楽しみだった。

そうしているうちに、わたしたちはそれぞれひとつずつマグカップを置くようになったから、先生の家の食器棚にはすこしの彩りが添えられた。
炭治郎くんは緑と黒と赤のアーガイル柄、錆兎くんはシンプルなアイスグレーの無地。
わたしはピンクの花柄。飲み口がぐるりと一周ゴールドになっている。
先生のは取っ手にひびが入っていたから、お気に入りの雑貨屋で新しいマグカップを買ってプレゼントした。
夜空色の濃紺のマグカップは取っ手と飲み口が金色で、同じ店で買ったわたしのものとデザインは違えどテイストが似ているため、お揃いのようにも見えた。


「炭治郎くん、お誕生日はなにがほしい?」
「もう来週か」
「ものはいらないけど、みんなで遠出するのはどうだろう」

教科書とのにらめっこにすっかり飽きてしまったわたしたちは、先生の淹れてくれた紅茶を飲みながら、来週に控えている炭治郎くんの誕生日について話しはじめた。
海という有力候補は、剣道部の合宿で行く可能性が高いため却下になった。
その後満場一致で決まったのは、とあるテーマパークである。

あとは先生を誘うだけ、とその姿を探すも、ベランダにいたはずの先生は、そこにもキッチンにもソファの上にもいなかった。
開けっ放しの寝室のほうへ向かうと、布団もかけずにベッドの上に横たわり、しずかな寝息をたてている先生が見えた。
投げ出された右手の親指が読みかけの本に差し込まれている。

わたしたちは顔を見合わせて、吐息だけでちいさく笑う。
錆兎くんと炭治郎くんには帰ってもらうことに、そしてわたしは先生が起きるまで待つことにした。
合鍵は先生に返してしまったし、鍵をかけずに出るのも荷物をあさるのも流石に憚られる。
それに、起きたときにひとりぼっちだと、先生がさみしくなってしまうと思ったのだ。


畳んであった薄手のタオルケットをそうっとかける。
先生は眠ると女性のようにも見えた。
深い夜色の髪の毛と同じ色の長いまつげが先生の透き通るような肌の白さを際立たせ、その白い肌が鴇色の薄いくちびるをよりうつくしく見せる。
今は閉じている瞳は凪いだ海の色。
澄んだ水底の色、吸い込まれてしまいそうになる、深い色。


洗い物を済ませ、先生の片付けかけの洗濯物を畳んでいると、ベッドのスプリングが軋む音がした。
リビングから寝室のほうをそっと覗いてみると、眠気眼の先生が横たわったまま携帯電話のディスプレイをぼうっと眺めているのが見えた。
覚醒しきっていない様子で、うっすらと開けた目をしぱしぱ瞬かせている。

「冨岡先生」

返事はなかったが、先生はかすかに唸りながらこちらを見てくれた。
携帯電話の電気が消えて、寝室のなかはわたしと戸の隙間から差し込むリビングのあかり以外のひかりを失ってしまう。
先生の家はどこもかしこもがすっきりと片付いているから、足元に注意する必要はなかった。

「先生」

先生はしずかな瞳でじっとわたしを見つめている。
吸い込まれてしまいそうになる。

「せんせ」

ベッドの傍らに座り込み、目線の高さを合わせる。
拳ふたつほどの近い距離で見る先生は、やっぱりうつくしかった。

「……義勇さん」

ベッドの上に顎を乗せてそう呼びかけたわたしの頭に、先生の手のひらが乗せられる。
その重みにまかせて首を寝かせると、まるで先生といっしょに眠っているかのような気分になった。
暗闇はわたしを驚くほど冷静に、すこし正直に、そして大胆にするようだった。

「遊園地に行きたい」
「うん」

低くかすれた返事は、まるで譫言のようだった。
うっすらと開かれた瞳はきっとわたしを映してはいない。
このことは先生のなかにきっと残らない。
明日になれば忘れられてしまう、うたかたの出来事だ。

先生をすきかもしれないと、そう言えば、先生はすこしあまえた声で「うん」と返事をして、そして明日には忘れてくれるのだろうか。
なにごともなかったことにしてくれるのだろうか。


先生、冨岡先生。
わたしは先生の、穏やかでさりげない、しずかに流れる水のようなやさしさがすき。
枕元にそっと置くだけみたいな、送り主のわからない手紙のような、スマートなこころ遣いがすき。
笑うことも頷くことも泣くことも強要しない、頬を撫でて通り過ぎるだけのそよ風のようなしずけさがすき。
冷たいうなぞこのような声がすき。
迷子のような瞳をするわけを知りたい。こころがどこにあるのか知りたい。
ここを置いて、どこへ帰ろうとしているのか。
先生。わたしは生徒だけれど、あなたが守りたいと言った生徒のひとりだけれど、先生が気になってしかたがないと言ったら迷惑だろうか。
目を離すとたちまちに消えてしまう気がすると言ったら、おかしいだろうか。


「先生、わたし、帰ります。鍵をかけられますか」


結局わたしは臆病で、暗闇のちからを借りてもなお、本音をひとかけも晒すことはできなかった。
先生はわたしの頭に置いた手のひらをそっと頬まで滑らせる。
低めの体温がわたしをゆっくりとあたためていく。
これ以上ここにいてはいけないと、そう思うのに、誘われるように瞳を伏せて、わたしはしばらくのあいだ、そこから動けずにいた。