11:ひと夏のブーケ

先生の車に乗せてもらってたどり着いたテーマパーク内は、見渡す限り、どこもかしこもが外国や、おとぎ話の世界のようだった。
現実的なことをいうと、ここをずっと向こうのほうまで歩いていけば、普段見ているなんの変哲もない世界にかちあうのだけれど、そんな当たり前のことがにわかには信じられないくらいの、見事に完成された世界だ。

マンドリンとアコーディオンの奏でるカンツォーネが耳に心地よくて、わたしは流れてくるサンタ・ルチアのメロディを鼻歌でなぞった。

「みょうじ」

よそ見をして皆とはぐれそうになってしまうわたしを、先生が呼び止めてくれる。
そのくちびるがやわらかく弧を描いていて、先生もいつもより機嫌がよいのだとわかる。
先生は深いVネックの細身のカットソーに、濃紺のスキニーパンツというラフな装いだった。
袖まくりをして、髪の毛はハーフアップにした部分をお団子にしてまとめている。
ジャージ姿ばかり見てきたものだから、いつもと違うオフの格好に、わたしは今朝からずっと胸の高鳴りを抑えられないでいた。

「楽しいか」
「はい、とっても」
「よかった」
「先生は楽しめていますか」

わたしがそう聞くと、先生は目を細めて頷いた。
潮のかおりのする風が、先生の前髪を揺らした。


空は晴れ渡っているし、普段は大混雑を極めている園内も今日はそれほど混んでいるというわけでもなかったから、わたしたちは皆、とびきりの上機嫌だった。

主役の炭治郎くんの胸元にはかわいらしいバースデーシールが貼られていて、誕生日だとアピールすると、きぐるみのキャラクターが身体を左右に揺らして近づいてきてくれた。


今日はわたしたち四人のほかに、先日まで事故で入院していた真菰ちゃんもいっしょだ。
真菰ちゃんは錆兎くんといっしょの孤児院で育ったおんなのこで、三人とは元々仲がいいと聞いている。
わたしも何度か会ったことがあるけれど、きちんとお話するのははじめてだった。
事故に遭う前は先生のマンションにもよく遊びにきていたらしく、クローゼットのなかに一着あったレディースのルームウェアが真菰ちゃんのものだとわかったとき、わたしはすこし、ほっとした。


途中、皆で動物のキャラクターの耳のついたカチューシャを買った。
炭治郎くんはおおきなねずみの耳がついたものを、錆兎くんと真菰ちゃんはくま、わたしはうさぎにした。
長い耳のなかには針金が入っていて、すきなところで折ることができるようだった。
先生の涼しげな面持ちに愛くるしいキャラクターグッズという組み合わせが存外マッチしたものだから、わたしたちは先生を着せ替え人形のようにして、いろいろなカチューシャを代わる代わるつけていった。
店を出る先生の頭に最終的についていたのは、もこもことしたかわいい猫耳のものだった。


ジェットコースターに乗る直前で、先生の携帯電話が鳴った。
たいせつな電話だったのか、先生はすこしためらったのちにディスプレイを耳に押し当てる。
列を抜けようと低い位置でひらりと振られたその手のひらに、わたしは思わず腕を伸ばした。

「わたし、先生に着いていく!連絡するから、後で合流しよう」

スタッフに声をかけ、脇道からアトラクションエリアの外へと出してもらう。
並んでいるあいだずっと聞こえていた、洋画の吹き替えのような芝居がかった台詞が遠ざかっていく。
先生はずっとなにか話しているようだった。手のひらはかたく繋いだままだった。


近くの適当なベンチを指差して、並んで腰をかける。
案内も終わり手を繋ぐ意味はなくなってしまったのに、先生は電話先の相手と喋りながら、ずっと、手遊びをするようにわたしの手のひらや指を握ったり撫でたりして離さないままでいてくれた。
そして通話が終わると同時に、今度はすこしのためらいもなくするりと離された。
わたしの手のひらには先生がいたずらに与えたぬくもりだけが残った。
日の入り後の薄明の空に、おおきな鳥が何羽か飛んでいた。

「お電話、だいじょうぶでしたか」
「たいした話じゃなかった。すまない、並び直すか」
「ううん、いいんです。先生こそ、乗らなくてよかったんですか」
「おれは保護者だから」

先生は息をつくみたいに、しずかに呟いた。
たくさんの思いが混色したような表情のなかには、諦めの色も含まれているふうに見えた。

「それなら、わたしも保護者になります」
「こどもはこどもらしくしていろ」

「だって、そんなの先生がさみしいです。わたしもさみしい。わたしたちみんなが先生に守られたら、誰が先生を守るんですか。先生は教師だからいろんなことをわたしたちに教えてくれるけれど、そうしたら先生には誰がなにを教えるんですか。わたしたちばっかりが与えられるのは、不平等です」

先生は先生だけれど、まだ二十三である。
まだまだ若くて青い気持ちがあるはずなのに、わたしたちといることで、先生はそのたいせつな感情を押し殺してしまっているのではないだろうか。
背伸びをしようとしてしまっているのではないだろうか。
わたしはそれがいつも気がかりでしかたがない。

「そんなのは、わたしもいやです」
「お前たちから教わるものもたくさんある」

例えば、なんなのだろう。
すべてのこどもが無知でおろかなわけではない。
先生と出会うこどもたちのなかには、先生へなんらかのよい影響を与えられるひとだっているだろう。
でも、そうやってひとくくりにされるのはいやだ。
わたしは、わたしが先生になにもあげられないのが、いやなのだ。


「お前はどうしていつも背伸びをしたがる。無条件に愛される時期をたいせつにして、うまくあまえろ。こころの育つたいせつな期間だ」

「……わ、わたしが錆兎くんたちの前で背伸びをするのは、がんばらないとみんながしあわせになれない気がするから。しあわせは勝手にやってくるものじゃないと思うから」

「じゃあせめて」

「わたしが冨岡先生の前で背伸びをするのは、先生に追いつきたいから。先生にこども扱いしてほしくないから。先生が一息つける場所になりたいって思うから」


自分でも呆れるくらいの、いかにもこどもらしい発言だと思った。
わたしは、がんばればがんばるほど先生から遠ざかり、こどもになってしまうのがいやだった。
先生を困らせてしまうわたしは、きっと今日、どのメンバーよりも飛び抜けてあまえた、ばかなこどもだった。



皆と合流したあとは、人気のないアトラクションをふたつまわり、名物のパレードを遠巻きから見た。
この時期は閉園近くに花火が上がるようで、わたしたちはすこし肌寒くなった園内をあてもなく歩きながら、他愛もない会話で時間を潰した。

やがてひとの波は、ランドマークのふもとの開けた広場のほうへ流れていく。どこから見るのがよいのかわからないわたしたちは、なんとなくその流れにまかせて歩いてみることにした。

後ろから乱暴に追い抜かれてよろめいたわたしの肩を、先生が抱き寄せる。

「なまえ」
「せんせ」
「名前。この前は名前で呼んだだろ」
「……覚えていたんですか」

突如、どん、という爆音が夜空に轟いて、続いて油の爆ぜるようなぱらぱらという乾いた音が響いた。
驚いた拍子に、わたしの身体は先生の手のひらから離れてしまう。
そのぬくもりを繋ぎ止めておきたいのに、理由がなければ触れてはならない気がして、わたしは伸ばしかけた手を自分のほうへ引き戻した。

深い濃紺の夜空に、大輪の花が咲く。緑、橙、紫、黄色。
わたしたちは五人、横並びになり、夏空にまたたいて爆ぜるひかりを見上げた。


口に出し損ねた名前を呼びたくなった。
花火の音に、人混みの喧騒に、わたしの声はきっと掻き消えてしまう。
わたしはそっと、ほんとうにそっと、ただ誤って触れてしまったとでもいうみたいに、先生の小指をごくゆるく包んだ。

「義勇さん」

震える呟きは、打ちあがる花火の音に紛れて透明になり、夜のしじまに消えていった。
先生の指はわたしを躱すように一度離れて、そしてすぐに戻ってくると、今度はわたしの人差し指から薬指までの三本をでたらめに握った。
わたしの指は先生の手のひらのなかで適当に重なって納まった。


先生がわたしを名前で呼んだのは、わたしを他の四人と区別しないという意思表示、即ち、先生のなかの生徒というアイコンのなかにおとなしく収まっていろという意味なのだろうか。
それとも、教え子の枠を超えたいというわたしの気持ちを汲んでのことだったのだろうか。
わたしには、これが前進なのか後退なのかわからなかった。

わたしの先生に対するこの気持ちは愛であり、恋である。
先生に抱くもどかしさのわけをずっと探していたけれど、この思いが錆兎くんたちに抱く心配などとはおおきく違っていると気がついたのは、わりと前のことだったと思う。

手探りで探しあてた濡れた本音に、そっと傘をさしてくれるような、先生のやさしさがすきだ。
水が穏やかに染み渡るように、わたしのこころは先生のやわらかいやさしさで満ちていく。
足りなかったものを補うように、満ちていく。

お返しをしたいだとかそういう気持ちからではなく、ただ先生に笑ってもらいたくて、わたしはわたしの優美ではない野花のような愛を、せいぜいたくさん束ねて渡したいと思うのだ。

これがありふれた、ひと夏の恋に終わるとしても、先生の人生に一瞬でも一輪でも花が咲くならば、それでよいと思うのだ。