12:スターリースカイ

わたしにとって最初で最後となる剣道部の合宿は、車で二時間弱のところにある、海と山に挟まれた廃校をリノベーションして作られた宿泊施設で行われる。
わたしたちのほかにニ箇所の強豪校が参加するということもあり、生徒たちのモチベーションは上がり通しで、初日を迎えた今日も皆、一様に士気高らかとした様子であった。


合宿場は、宿泊施設の名前が書かれた縦長の看板が立っているだけで、あとは学校そのものといった佇まいだった。
星を観測するための望遠鏡が五百円で貸し出しされていて、使用したい旨を伝えると、鍵をふたつ手渡された。
望遠鏡を保管しているトランクルームの鍵と、屋上の扉の鍵だった。

講堂では生徒たちがそれぞれウォーミングアップを行なっている。
すえた埃のにおいと、塗りたてのワックスのにおいがする。
義勇先生はステージ前に並べられたパイプ椅子の横で、他校のコーチと話し込んでいるようだった。
その様子がめずらしくて、わたしは先生の横顔をちらちらと盗み見るようにしながら、みんなの荷物と貴重品のタグ番号を整理する。
目があってしまったから軽く会釈をしてごまかすように笑ってみると、先生はすこし呆れ気味にかすかに頬をゆるめ、ひらりとちいさく手招きをした。

「うちのマネージャーです」

先生の手のひらが肩に触れる。
わたしは先生の生徒としてマネージャーとして恥じないよう、深々と頭を下げた。
誇らしい気持ちの隣には、生徒という呪いへの悔しさがあった。
生徒やマネージャーという立場に牽制されているように感じて、すこしせつなかった。
触れられた肩だけが熱かった。


「夜の肝試し、なまえもくるか」
「肝試しをやるの?」
「幽霊が出るって噂で皆沸いてる」
「わたし、星が見たい」
「そうか。おれは多分そっちにはいけないから、義勇に頼もう。女子はひとりだもんな」
「わたしはひとりでも大丈夫だよ。でも、気にしてくれてありがとう、錆兎くん」

合宿上の裏にそばだつ藤襲山は、その名の通り藤の名所として、そして同時に心霊スポットとしても名の知れた山である。
狂い咲きの藤の花を見た者は神隠しに遭ってしまう、というのが有名なエピソードだ。帰ってきた者はひとりもいない。
実に稚拙な作り話である。
だって、帰ってきたひとがいないのなら、いなくなったひとがなにを見たかだなんてわかるはずもないのだから。
しかしながら、この山の携えるもの悲しい気は胸にくるものがあって、一度見れば忘れられなくなってしまいそうな魔性さえ感じてしまうということも、確かだった。
きっとその奇妙な存在感が、でたらめな噂を今日まで生かしてきたのだ。

錆兎くんと先生は時折、山の中腹あたりを見つめているようだった。
なにかに誘われるようなまなざしがすこし気がかりだったけれど、わたしもまた、気がつくとあの山をぼんやりと見つめてしまっているのだった。



屋上からは肉眼でもたくさんの星々が見えた。
ぱちぱちとまたたく星、尾を引いて空を駆ける星。薄靄のようなかがやき。
濃紺から深い紫、そして藤色。夜空はきれいなグラデーションだった。
ふと山のほうに視線をやると、その中腹が、青みがかったピンク色にほの淡くひかっているのが見えた。
一体なにがと考えるよりも先に、わたしの胸のうちは得体のしれないせつなさでいっぱいになってしまう。

なぜだかわからないけれど苦しくてたまらなくなくて、せつなさを持ちきれなくて、それと同時に、無性に先生に会いたくなった。
今すぐ会いたくてたまらなかった。
今は便利な時代で、指先ひとつであらゆることができてしまう。
先生の名前に触れると、マンションのエントランスの解除番号だけが書かれたさみしいチャット画面が開いた。
指先で綴った「会いたい」の四文字は送らないままにしておこうと思ったのに、また心臓がぎゅうっと強く傷んだから、その苦しさに背中を押されるようにして、わたしはそうっと送信ボタンのあたりに触れた。
目を瞑って、触れた。
押し損ねてしまうならそれでいいと思った。

応えるようにすぐ、携帯電話が震えた。バイブ音が続く。電話のようだった。

「お……おつかれさまです、義勇先生」
「おつかれ。どうした」
「あの、星を見ようと思って、望遠鏡を借りられたから、だから。きれいで、肉眼でも見えて、でもせつなくなったんです……だから、会いたいと、思って」
「待ってろ。すぐ行く」

しどろもどろなわたしの言葉に、先生はやさしく返してくれた。


やがて唸り声みたいな鈍い金属音と共に扉が開く。
振り向けば、吹き込む風に前髪を揺らす義勇先生と目があった。
先生の頭上にも、宝石箱をひっくり返したみたいに無数の星がきらめき、またたいていた。
山から吹き下ろす風は、深い花のかおりがした。

わけのわからないせつなさがあった。
わけがわからないものは、こわかった。
どこからやってきたのか、どうすればよいのかもわからない、対処のしようがないことが、わたしはいつもこわくてたまらない。
先生への気持ち以外は。


「先生に会いたかった。なんだかせつなくて」
「そういうときはあまえればいい」
「先生に?」
「誰でも、お前があまえやすいやつに」
「先生ばかりを呼んでしまいますよ」
「いいんじゃないか」


わたしたちは、屋上のベンチに並んで腰をかけて、空を見上げた。星座観測のアプリを使って有名な星を探したり、望遠鏡を覗いて銀河を手に入れたような気分になったりした。
海と山に近いここはすこし肌寒くて、先生はわたしにジャージを羽織らせてくれた。

「義勇先生、見て、星雲!これが見たかったの」

レンズを覗き込みにきた先生との距離がぐっと近くなる。頬どうしが触れそうになって、わたしは一歩後退りをする。
思わずおさえた左頬の高い熱に、自分でも驚いてしまう。

「オーロラと星屑を、マドラーで混ぜたみたい」
「きれいだ」

先生の声が心臓の底をやさしくくすぐる。まるでわたし自身が褒められているみたいに聞こえて、喉の奥がきゅうんとうずく。

あたり一面に漂う花のかおりがせつない。
先生や錆兎くんが遠くを見るのを思い出すとせつない。
せつなさはなくならなかった。
けれども駆けつけてくれた先生のやさしさがうれしくて、こころは幾分か落ち着いた。


「先生、電話をありがとう」
「……めずらしいと思った。さみしい思いをしているのかもしれないとも」
「来てくれた理由を聞いたら、いけないですか」


ややあって、先生が振り向く。
外はねの髪の毛が、木の葉のようにさわさわと揺れる。
聞かないほうがいいかもしれないと思った。
どうやって制止しようとしていたのかはわからないけれど、この話を終わりにしたくて、わたしは咄嗟に手を伸ばしていた。
情けなく揺れる腕を、先生はやわく掴む。
触れようとしたことへの牽制なのか、それとも別の理由なのかはわからなかった。

先生が会いに来てくれた理由。
わたしが守られるべきこどもだから?かわいそうだから?
それとも理由なんてないのだろうか。
いずれにしても、わけなんてものは先生の胸のうちにあるままのほうがいいのかもしれない。
なにを言われたって、拒絶されたって、わたしのこころは今さら生徒になんて戻れないのだ。


「いちばんは、お前がさみしい思いをしているのはいやだったから。次に、お前に会いたいと思っていたから。会いたいと思っていたのは、星がきれいで、お前が喜ぶと思ったから」


時が止まってしまったみたいなしずけさのなかで、わたしは先生を見つめた。
そうだ。星がきれいだと、わたしはうれしい。
きれいなものには願いを乗せたくなるから。
星は空にたくさんまたたいているから、きっとたくさんの願いをかなえてくれる。
わたしの願いも、わたしのたいせつなひとたちの願いも、すべて。

わたしは、今目の前にある星のすべてを先生にあげたくてたまらない気持ちになった。
わたしがさみしい思いをするのがいやだと言ってくれた先生もまた、さみしそうな顔をしていたから。
あまえることが苦手な先生の、秘めた願いがたくさん叶えばいいと思った。

星空に向けて伸ばした両腕でやわく抱きしめると、先生もわたしの頭を片手でそっと抱いてくれた。
ちいさな手のひらで集めた星々が、先生のこころをそっと満たしていくのを想像して、わたしはしずかに目を閉じた。