13:ミスユーモア・アンド・モア

チャイムが鳴る。すこし間を開けて二回、そのあとしばらく経ってもう一回。
扉の外からくぐもったあまい音がきこえる。耳をそば立ててみると、名前を呼ばれているのだとわかった。
返事をする気力がなかった。そのまま帰ればいいと思った。

じりじりと身を焦がすうだるような暑さに、うなじが濡れる。
起き抜けにローテーブルに突っ伏してから、もうずっと動けないままだ。
なにをする気力も湧いてこない。
ただ、どうしようもない、途方もなくおおきなやるせなさが身体中を支配してしまって、動けなかった。
時折やってくる叫び出しそうなほどの激情を押し込んで、ずっと、ずっと、こころを潰してしまいそうな虚しさに、ただ耐えていた。


昔から、この町には前世の記憶を持つものがなぜだか多くいるとささやかれている。
この記憶が前世といわれるものなのかなんなのかはわからない。
もしかすると、鬼を見たことがあると語った幼いころのおれを嫌煙した親戚の言うように、いかれたこころが見せるただの妄想なのかもしれない。ほんとうのことは誰にもわからない。
タイムマシンでもない限り、確かめようがないからだ。

なにもかもを詳細に覚えているわけではなかった。
おれのなかに残っている記憶は、鬼と呼ばれる存在と戦っていたことと、親友である錆兎と弟のように気にかけていた炭治郎の存在、あとは結婚間際の姉を亡くしたことのみだった。

ねえさんを守るために、この時代でどれほどおとなになればいいのか、どれほど強くなれば十分なのかがわからなくて、背伸びばかりしていた。
なにをしても足りない気がした。努力も実力も足りていない気がした。
こんなことじゃあたいせつなものを守りきれないと思った。後悔だけの人生になると思った。

錆兎に会ったときには、年が随分と離れてしまったことに絶望した。
姉さんを追い越すためおとなになろうとすればするほど、錆兎たちとは遠く離れてしまうという事実が、おれのこころをひどく消耗させた。
おとなにもなりきれず、友とは共に歩めず、はたしてどう生まれていれば正解だったのかまるでわからなくて、常にやるせなさのなかにいた。

平和な時代に生まれたことだけが救いだった。
せめて、守りたかった尊いいのちたちがこの世界で健やかに育つようにと願って教師になった。
夢は立派だったかもわからないが、自分には向かない職業だった。


「ごめんなさい、入ります」


扉の開く重たい音がして、足音が近づいてくる。
キッチンかそこらに鍵を置く、無機質な音が聞こえた。
顔をあげる気力はなかったし、今自分がどんな顔をしているのかも見られたくはなかった。
迷子のこどものような気持ちなのだ。
彼女にあまえて幻滅させて、教師としてこどもを守るという唯一のポリシーすら揺らいでしまうのなら、どうやって生きていけばいいのか、いよいよわからなくなってしまう。

「義勇さん」

彼女は、いつものように先生とは呼ばなかった。
教師やおとなということだまの外にやられたおれの名前が、しずかな空間に溶けていく。
在り方を縛られるべきではない、純粋なただのひとりの人間であるという感覚を、彼女の透き通る声が呼び戻す。
情けなくてたまらなくて、なにも言えなかった。
彼女の手のひらが頭にそっと乗せられる。

「鍵を返しに来たんです。このあいだ、返しそびれてしまったから」

赤子をあやすみたいにやさしい声でささやいて、彼女は立ったまま、ゆっくりとおれの髪の毛を撫でた。
どれだけふたりでそのままの場所にいたのだろう。
彼女はそれ以降なにも言わず、あたたかな手のひらでずっと頭を撫でてくれていた。
おれは顔を突っ伏したまま、すがるようにして彼女のスカートの裾を握りしめていた。


どうして生まれてきてしまったのか、どうしてこんな記憶を所有しているのか。
皆が正しいなか自分だけが間違えて生まれてしまったみたいで、前世も出生も変えることはできなくてやるせなく、間違っているとわかっているのに正せないことが恨めしくて、いつだって、たまらなくむなしかった。

彼女はなにを聞き出そうとするわけでもなく、ずっとしずかに寄り添っていてくれた。
しばらくしておれの手のひらをそっと解いてキッチンのほうへ向かうと、残したままだった洗い物を片付けて、そのあとなにかを作ってくれているようだった。
ソファに座りなおしたおれを見て、彼女はやさしく目を細めてほほえんだ。

「冷製パスタを作ったので、お腹が空いたら食べてください」

彼女はキッチンのあかりを消してまたおれの隣まで来ると、慈しむようにおれの横髪を撫でて、そして頭のてっぺんにくちびるを寄せた。
そのまま帰ろうとする彼女の手を取って引きとめる。

彼女と自分はきっと似ている。
うつくしいと思うものや、やさしさを受け入れるための器のかたち、こころの動き方、せつなさの感じ方。
彼女といると、こころが随分と楽だった。
彼女もこんなふうに、やるせなさや虚無感に飲まれてしまうことがあるのだろうか。
今は、平気だろうか。
情けなさに呆れていないだろうか、手に負えないと辟易していないだろうか。

一度瞳をまるくして、彼女はまたふんわりとやわらかい笑みを浮かべた。
すべてを包み込むようなやさしい笑顔。
朝露に濡れた花がそっと開くような、うつくしいほほえみ。

隣に腰を掛けて、彼女はおれの肩にもたれかかる。うまくあまえられないおれへの手ほどきのようだった。
重なるようにして、おれも頭を傾ける。
彼女のあまいかおりが身体じゅうを満たしていく。
古の記憶に囚われる苦しみのなかで、彼女に会えたことは確かにおれのこころに差したひかりだった。


遠い記憶のなかで笑う彼女のことを思い出したのは、窓の外が夕映えで黄金色にきらめきだしたころだった。
混濁する感情のなかで、おれはまた、迷子のような気持ちだった。
うなだれるおれの頭を、彼女はまた撫でた。
この手の感覚をここちよいと感じているのが、はたして自分自身なのか、引継ぎ、刷り込まれた記憶のせいなのか、おれにはもうわからなかった。