14:いさり火

夏の名残りを感じる、ぬるい日だった。
先生の部屋で集合するはずだった錆兎くんたちが一向に姿を見せないまま、一時間半が経つ。
一時間やそこらなんて、皆との写真を見返していればにあっという間に過ぎてしまうし、待つこと自体は全く平気なたちである。ただ、連絡さえないというのはさすがにすこし心配だった。
抱きしめていたクッションは、わたしの腕のなかでぺしゃんこにつぶれて平たくなっていた。


時は風のように過ぎていく。
秋と冬を越えれば、わたしはもう高校生ではなくなってしまう。
義勇先生の生徒でなくなってしまうのに、先生の生徒だったという事実は変わらない。
わたしの肉体を校舎に縛りつけていた、生徒という立場の効力だけが消える。
会えなくなる。そして会わなくなる。
先生の記憶のなかで、たくさんの生徒に溶けてなくなる。
先生がそうなることを望むのなら、黙って頷いて、先生に守られたひとりの生徒として終わるのがきっとよい。
先生のこころを守るシンボルの一部として、彼の秘めたる苦しみを、ほんのすこしでも癒せたらいい。


扉の開く音がして、わたしは勢いよく振り返る。
掲げかけた片手があてもなく空間をさまようことになったのは、視線の先にいた人々が、想像していた顔ぶれとはまるでちがったからだ。
驚いたわたしの顔を見て、宇髄先生は大声をあげて笑った。
彼の隣には、煉獄先生と不死川先生。そして義勇先生は、彼らのあいだからばつが悪そうに顔を覗かせていた。
先生方は固まって立ち尽くすわたしの横をぞろぞろと通り過ぎていく。
錆兎には伝えてあったんだが、と義勇先生は眉根を寄せた。


「みょうじが冨岡とできてたとはなあ」
「そ、そういうんじゃないです」
「不能じゃなかったのかよ」
「不能……」
「繰り返さなくていい」

宇髄先生はわたしの頬を親指と人差し指でがっしりと掴み、値踏みをするみたいにあらゆる角度から視線を這わせる。

「新品未使用だな」
「も、もう……!お水を飲んでください」

先生方は自分たちで買ってきた缶ビールを次々に開けていく。
誰かの差し入れの日本酒も、もう一升瓶の半分以下しか残っていない。
作ったそばからなくなっていってしまうおつまみのお皿は、義勇先生が下げに来てくれた。

憎まれ口を叩きあいながらも、先生方は存外仲がいいようで、義勇先生はいつもと比べると随分饒舌だった。
お給仕役として捕まってしまったことを、わたしはすこし幸運に思った。

「あまいもんが食いてェ、みょうじ」
「不死川、彼女を雑に扱っては冨岡に絞られるぞ」
「ヤられる前にPTAに突き出す」
「証拠押さえとこうぜ」

体格のいいおとなたちが集まると、いつも広々と感じていた先生の部屋は、部屋としての機能を存分に発揮できているように見えた。
ローテーブルに乱雑に並ぶスナック菓子とアルミ缶たちすらも、いつもはさみしげな室内を賑やかに飾り立てるインテリアのようだった。

先生たちの笑い声とシンクに流れていく水の音が、一瞬だけ遠くなる。
まるでキッチンからこちら側だけが世界から切り離されてしまったような錯覚。心細さに胸がちくりとする。
時折、もっと早くに生まれていればよかったと感じてせつなくなるときがある。大抵は先生を思うときだ。
もっと早くに生まれていれば、先生の悩みや苦しみを分けてもらえたかもしれない。
対等な立場で笑いあえていたかもしれない。
錆兎くんたちのことだって、もっと安心させてあげられたかもしれない。
自分の頼りなさをなにかのせいにしたくはないけれど、わけもなく守られているだけの現状に焦るとき、もっとおとなだったら、おんなのこじゃなかったら、などと考えてしまうのだ。
わたしはいつだって、自分に自信が持てないでいる。


冨岡先生がふいに立ち上がって玄関へと向かう。具合でも悪いのかと心配になってその背中を追うわたしに、宇髄先生は折り畳み傘を投げて渡してくれた。

「ごゆっくり」

アルコールのにおいにあてられたのか室内の熱気にのぼせたのかはわからないけれど、わたしの身体はかっかと火照っていた。
地を這うようにゆっくりと流れるぬるい空気が、すこしずつその熱を冷ましていく。

「着いてきたのか」

先生はいつものようにかすかに表情をゆるめた。
しずかな水面に波紋がそうっと広がるみたいに。
他のひとなら見落としてしまうほどのそのかすかなほほえみが、わたしはだいすきだ。

雨のにおいがする。
雨音は聞こえなかったけれど、吹きさらしの廊下の手すり壁に、ちいさな水たまりがたくさんできていた。
先生はエレベーターの前で、わたしが追いつくのを待ってくれているようだった。
ポケットに手を入れて右足に重心を乗せ、涼しげな目元をほんのすこしだけ、ほころばせていた。