15:雨開の残火

エレベータは張り替えたてのカーペットのにおいがした。
エントランスはしめっぽい雨のかおり。
信号機と街路灯のあかりが反射して、マンション前の濡れた歩道はエメラルドグリーンと金柑色にきらめいていた。

「気分が悪いのかと思って」
「いや、伊黒を迎えに行くだけだ。あいつはおれの家を覚える気がない」
「伊黒先生とも仲よしなんですね」
「腐れ縁だ。戻ってもいいが、駅まで来るか」
「いっしょに行きたい、あの、先生がいやじゃなければ」
「いまさら」


このあたりはベッドタウンのすぐ横で、わたしたちの町の端っこにあたる。
昼はおどろくほどしずかで、マンションと団地の隙間にはアパートが立ち並び、コインランドリーと二十四時間やっているファストフードのチェーン店が多くあった。

先生の背中を追って歩道橋の階段を上る。
歩くのが早い先生は何度か立ち止まってくれたが、やがて面倒になったのか、わたしの手を握ってくれた。
そうすると、わたしの歩く速度が速くなったのか先生が合せてくれたのかはわからないけれど、わたしたちは意識をせずとも同じペースで歩けるようになった。


「義勇先生、見て。わたし濡れた道路がすき。テールランプが名前の通りに尾をひくの。ほら、ひこうき雲みたい。あそこはゲームセンターでしょうか。ピンク色のネオンが道路でつやつやしてる」

「楽しいか」

「はい、こんな日は。先生といると特に」

「ゆっくり行こう。伊黒はたぶん彼女といっしょだ」


先生、すき。
そう言いだしてしまいそうになって胸元を押さえた。
また視線を眼下へと向ける。
雨上がり特有の、わずかなしぶきを上げて走り去る、さあっという涼しげな車の音もすきだ。
ひかりとひかりがクロスしてかがやく。溶けてひかる。混ざって水面のような大地を彩る。
地平線に宝石をちりばめる。おひめさまのティアラみたいに。


ひとを愛することは、もっと激情を伴うものだと思っていた。
死にたくなるほど叫びたくなるほどに手に入れたくなってたまらなくなって、息もできなくなってしまうような不自由さに、ついにはこころを壊してしまうようなものだと。
わたしのなかに生まれた愛というものは想像とはまったく違っていて、もっと穏やかで水のようで空気のようで、元々あったものを取り戻したかのような満ち足りた気分にさえなれた。

先生と離れ離れになってしまうことはせつない。
思いが実らないこともせつない。
先生を失ってしまったとき、わたしはきっとこの世のおわりみたいに泣いて泣いて、泣き倒すのだ。
それでも、それよりも、わたしは先生に会えたことがうれしい。
錆兎くんがいて、宇髄先生方がいて、先生はきっとこれからも愛されて生きていく。たとえわたしがそこにいなくとも。


「先生は、誰かとお付き合いしたことがありますか」
「まあ」
「どんなひと?」

すごく遠いところで、クラクションが短く鳴るのが聞こえた。
すこしして、また下を車が通り過ぎる、さあっという涼しい音がした。
うねる鏡のようになった道路に、金魚のしっぽのような炎色のあかりが走り去っていく。

「どことなく、お前に似ていたと思う」
「…わたしと」
「すぐ別れた」
「ううん、喜べぶべきか落ち込むべきかわかりませんね」

わたしが笑うと、先生は眉尻を下げた。表情からも、その言葉の意図は読み取れなかった。


「先生、わたし、心理カウンセラーになりたいんです。悩めるこどもたちを助ける手助けをしたいって、そう思うの」


変でしょうか、と照れくささを隠すように苦笑すると、先生はちいさく笑ってくれた。
「向いているんじゃないか」と返してくれたその顔は、泣きそうにも見えた。


三番出口の前には、伊黒先生と桃色の髪の毛をした女性が肩を寄せあい、ふたりでひとつの携帯電話をのぞき込んでいた。
離したほうがよいと思ってわたしは指先の力をゆるめたけれど、先生の手はわたしの手のひらを捕らえたままだった。

期待というものは、どうやって昇華したらよいのだろう。
指の隙間に入り込むやわらかい熱がここちよい。
早く忘れてしまわなくては、このあまい気持ちがそっくりそのまませつなさになってしまいそうで、すこしだけこわかった。