16:月はこの世の

なまえはいつも、さみしさをごまかすように笑う。
時折遠くをぼんやりと見つめて、どこか別のところを探しているみたいな顔をする。
ここがほんとうの居場所ではないというように。月を懐かしむかぐや姫のように。

「義勇さん。写真をね、印刷したの。玄関かテレビボードに飾ったらどうかと思って」
「自分の家に飾れ」
「誰にも見てもらえないだなんて、写真のなかのわたしたちがかわいそうです」

なまえは時折「先生」ではなく「義勇さん」と呼ぶ。
あまえた声で、こころの底から愛おしそうに、子猫を撫でるようにやわらかく。

「へえ、こんなにたくさん、よく撮ったな」
「卒業前にアルバムを作りたくて、それで」
「なまえがあまりいない」
「わたしが撮ったんだもの」

ローテーブルに広げた幾枚もの写真は、どれもこれもがうつくしかった。
なまえの見ている世界の一部、なまえの瞳を通して見る景色を、追随して見ているようだった。
朝露のようにかがやく瞳には、世界は普段からこんなふうにかがやいて見えるのだと思うと、彼女のこころがあんなにも豊かな理由がわかった気がした。

「これならお前も写ってる」

義勇はローテーブルの後ろのソファに腰をかけたまま、前方に座っているなまえの肩に顎を乗せ、まるで抱きしめるみたいに腕をまわす。
涼しげな瞳のまま背骨をまるめてあまえるようにすり寄る様は、さながら猫のようだ。

「いやだ、目をつむってる」
「飾るか」
「さ、削除してください」

なまえが義勇のほうへ顔を向ける。
くちびるが触れてしまいそうな距離のまま、ふたりはお互いを見つめる。
炭治郎と真菰は、件の写真を覗きにふたりのもとへと膝で這っていった。
なんとなく気が引けたから、おれはテレビ番組を気にしているふりをして、テーブルの端の定位置に腰を下ろしたまま動かなかった。
携帯電話のなかにはなまえとの写真がたくさんあったけれど、どれもこれも、今は誰にも見せたくないと思った。

おれの撮った写真はなまえが撮ったものとはえらく違っていて、きらきらとかがやいてもいなければ映画のワンシーンのようでもなく、平平凡凡なつまらないものだった。おれが毎日ぼうっと眺めている世界そのものである。
それでも彼女は、なまえだけは、無愛想に四角く切り取っただけの世界のなかでも、路傍の花のようにあざやかに咲きほこっていた。

「なまえの写真、義勇ばっかり」
「先生のおうちに飾るんだもの、先生が写っているものを選んで印刷したのよ」
「ふうん、ほんとうかなあ」
「ほんとう」

真菰のいたずらな視線を、なまえはゆるい笑顔でいなす。
きゃっきゃと声を上げて笑う真菰にもたれかかって、なまえもおかしそうに目じりを下げて笑った。
炭治郎はひとり真面目に、なまえの持って来たモノクロのビジューがついた写真立てのどこになにを入れるかを思案しながら、時折ううん、と首をひねっている。
義勇は写真を一枚拾い上げてすこしのあいだ眺めたのち、それをなまえのかばんのなかに差し込んだ。
なにが写っていたのかはわからなかったけれど、そっと瞳を伏せた表情が、とてもやわらかかった。


夏は日が落ちるのが遅いから、つい長居をしがちになる。
帰ろうかと思ったときには、もう寮の門限ぎりぎりの時刻であった。別に遅れたって問題はないのだ。
生まれ育ったこの町は、時の流れる感覚もひとの気性も実にのんびりとしていて、門限だとかバス時刻だとか、そういったことには随分とルーズだった。
急くようにあっという間に過ぎたのは、なまえに会ってからの数年間のみである。


なまえはソファで義勇の膝に頭を預け、しずかに寝息を立てていた。
投げ出された足にちいさなブランケットがかかっている。
特に話しあうこともなく、おれたちは三人ともそのまま各々に荷物をまとめた。
義勇はなまえの腰元に手のひらをおいてソファに座ったまま、もう片方の手をちいさく上げて、玄関から出ていくおれたちを見送った。


かぐや姫は、桃源郷のような月で罪を犯して地球へおりてきた。
月が恋しくて、帰りたくて、最後は誰とも結ばれずに帰っていく。
どうしたって解くことのできない難題をいくつも残して。

なまえのこころはどこへ行きたがっているんだろう。
無自覚のうちに過去にとらわれたままどこにも行けずにさまよったりはしないでほしいと、そう願っていたことが杞憂でよかった。

そして帰っていく。
どうやったってほどけないせつなさだけを残して。