17:愛も道づれ

霞んで見えるのは、見慣れたローテーブルだった。
硬いソファに横たわるわたしの上に、肌ざわりのよい薄手の毛布とタオルケット、そしていつもは寝室にある羽毛布団が重ねられていた。

やってしまった、と思った。
慌てて飛び起きて向かった寝室に、先生の姿は見えなかった。

対面キッチンのカウンターに、わたしのマグカップをペーパーウェイトがわりにしたガス屋の付箋が置いてあった。
几帳面な字でたったの三文字「買い物」とだけが書かれていた。


眠ってしまったことはうっすら覚えている。
すこしだけうたたねをして、そうしたらみんなといっしょに帰るつもりだったのだ。

せめて朝食の用意でも、と思ったけれど、冷蔵庫のなかは相変わらずすかすかで、さみしげだった。
先生の冷蔵庫内は、普段なにをどう食べて生きているのか心配になってしまうほど、いつもがらんどうとしている。
今日は卵すらもなく、ほんの少しの調味料とペットボトルの水、牛乳と瓶に入った乳酸菌飲料と、三つセットのパック納豆と玉子どうふがあるのみだった。

諦めておとなしく待つとして、電話を入れるべきだろうか。
しかし謝る以外に話すこともなければ、そんなに気軽に電話をできる仲でもない。
メールをするべきだろうか。
でも、文章にすると何事もすこしそっけなく見えてしまう。気持ちが正しく伝わらなかったら困る。
わたしは先生へ連絡をする理由としない理由を思いつく限り、頭のなかに交互に並べた。

「こんにちは」

ふいに降ってきた聞きなれない声に顔を上げると、そこに立っていたのは、豊かな黒髪を後ろで一本に編み下ろした女性だった。
ごく薄いメイクを施した端正な顔のなかで、濃くしっかりとした艶めくまつげに縁取られた瞳が、宝石のような存在感を放っている。
冷蔵庫の扉を閉めると、たんっという軽快な音と共に、ちいさな冷たい突風が頬を撫でた。


「…こ、こんにちは。あの、みんなは帰ってしまって、わたしは眠っていただけなんです。義勇さんはお買い物で、だから、きっともうすこしで帰ると思います」

「びっくりしたわよね、急に押しかけて。姉の蔦子です。冷蔵庫、空っぽだったでしょう。お野菜を持ってきたんだけど、いっしょに待っていてもいいかしら」

「ああ、いえ、わたし、もう帰ります」

「義勇に連絡したら、家で待っていてって言われたの。会わせたくないと思っていたら言わないことだわ」


わたしは、蔦子さんのその言葉になんと返せばいいのかも、自分のことをどう説明すればいいのもわからなくて、ただおずおずと頷いた。

蔦子さんと先生はよく似ていた。
見た目には、高い鼻と白い肌、つやつやとしたまつげ、すこしかたそうな髪が。
それよりも似ているのは、やわらかさだった。
喋り方や立ち居ふるまいではなく、こころのうつくしさからにじみ出る、もっと本質的なやわらかさが、とても。


蔦子さんはソファへ、わたしは床へそれぞれに腰を下ろして、そのまましばらく話しをした。
わたしは、会話がなるべく難しいテーマにならないよう、当たり障りのない天気のことや最近世間をにぎわせているニュースについて、とにかく、努めて関心深く聞こえるようにゆっくりと口にした。
わたしが何者なのか、蔦子さんは聞かなかった。
学生なのか、歳はいくつか、どうしてここにいるのか、先生のなんなのか。


ほどなくして帰ってきた先生を加えて、わたしたちは三人で食卓を囲むことになった。
先生が買ってきたのは、カットレタスと卵とベーコン、インスタントのコーンポタージュで、蔦子さんが持ってきたのは、トマトとアボカドときのことパプリカだったから、朝食はその一部を使って豪華なサラダときのこのバターソテーと目玉焼きになった。

「かわいい彼女がいるなら、教えてくれたらよかったのに」
「わざわざ話すことじゃない」
「あなたはそんなふうだから、何事も話しておくほうがいいのよ。なににおいても、こじれる原因を作らないことがたいせつだわ」
「なまえ、足りるか」
「あ、はい。だいじょうぶです。どれもおいしいです」

先生は、わたしを彼女と言った蔦子さんの言葉を否定しなかった。
生徒であるというよりはそちらのほうが都合がいいというわけか。否、生徒であるわたしを泊めることも、先生にとって取るに足りないことなのだろうか。
交際していたってしていなくたって、この状況は褒められたものではない。わたしは未成年の女子高生である。
ますます身のふりかたがわからなくなり、迷子のような心細さ。
しかし、打算的なものはすこしも感じられないのであった。

「義勇は難しいでしょう」

そんなことない、たったそれだけのことをどんな言葉にするのが適切なのかすぐには思いつかなくて、わたしは必死に首を横に振った。

「この子はね、ちいさいときは、よくかわいげがないって言われたの。そんなところがかわいいってわたしは思っていたんだけど。でもそう、長いことこの調子だから、あまえられるいいひとが必要だって思っていたのよ」

「……義勇さんのやさしさは、無骨なようでスマートです。よく見つめていなければ気がつかなかったと思うこともあります。でも、いやだとか面倒だとか思ったことはありません。なにも言わないときは、なにかを一生懸命考えているとき。見失いそうになってしまうこともあるけれど、耳で聞くより、感じたい。そうやって義勇さんのやさしさを拾い上げる日々が、わたしにとってはとても、とても愛しいんです」

「あなたがいてよかった」


蔦子さんは笑った。花が咲きこぼれるようだった。その薬指には、おおきなダイアモンドのついたエンゲージリングがかがやいていた。
先生は歌でも聴くように目を伏せて、グラスの淵を指でなぞっていた。

ほんとうのことを明かさなかったことには一抹の罪悪感があったけれど、蔦子さんはきっとすべてに気がついているという気がした。
わたしが先生の生徒で、彼女でなくて、先生のことがすきなこと。
今しがた、ずるい告白をしたこと。先生が愛おしくてたまらないということ。