18:オンユアマーク

蔦子さんが帰ったあとわたしたちが向かったのは、車で三十分ほどの町にある区民ホールだった。
先生は深いピーコックグリーンの細身のシャツに、チャコールグレーのテーラードジャケットとお揃いの色のスラックスパンツを合わせている。
わたしも一度家に寄り、ちょっぴりフォーマルなワンピースに着替えて、靴もヒールのあるものに履きかえた。


今日は真菰ちゃんの所属している吹奏楽部のコンクールが行われる。着いてくるかと聞かれたから、二つ返事で頷いたのだ。
コンクールには炭治郎くんの妹の禰豆子ちゃんも参加する。
ふたりにとって、先生は兄であり父のような存在なのだと思う。
先生はまだ若いのに、時折その年齢を忘れてしまいそうになる。


中学生たちのなかには、ほとんど小学生のように見える子がたくさんいた。
制服を脱いでしまえば、小学生も中学生も高校生も、見分けがつかなくなるだろうか。
たしかに、どこに振り分ければよいのかわからないひとがたくさんいるだろうと思った。
それなら、おとなだったらどうだろう。
二十歳から三十手前のひとたちを適当に集めて年齢をあてるのは、なかなか難しいと思った。
でも、学生か社会人かを見分けるのはきっとたやすい。顔つきが違うのだ。
わたしはこどもで、先生はおとなだった。
わたしが境界線を越えたとき、先生の目にわたしがどう映るのか、わたしはきっと、知らないままに生きていく。
わたしの成長を待たず、もうすぐ別れが来るのだ。

スタートまではまだすこし時間があった。
先生は教師だから楽屋のなかまで入られるはずなのに、差し入れを近くを通ったうちの学生へ預けてしまうと、そのまま多目的ホールのほうへと歩いて行った。

「どうした。行くぞ」

今の生徒から、わたしたちはどういうふうに見えたのだろうか。
先生のこともわたしのことも知らないひとからは、わたしたちはどう見えるのだろう。
隣り合わせで座って前半のプログラムが終わるあいだ、わたしはそればかりをぐるぐると考えていた。


二十分の休憩のあと、後半がはじまる。
わたしたちは多目的ホールの外へ出て、ガラス張りのエントランスホールの脇から非常階段を上り、二階の貸し会議室の並ぶ廊下へと向かった。
真菰ちゃんから、抜けられるから話そうと連絡があったのだ。

「毎回来なくったって平気だって言ってるのに」
「暇だっただけだ」
「毎回毎回?」
「そういうことになるな」

憎まれ口を叩きながらも、真菰ちゃんは心底うれしそうだった。
どこからともなく、音だしのテストをするトランペットの音と、円陣を組むかけ声が聞こえてくる。
審査員の投票で一位を獲得すれば、全国大会へと進める。
真菰ちゃんの腕には、ビーズの花のついたミサンガが結ばれていた。

「ふたりはわたしの大事な家族。来てくれてありがとう」

ほどなくして休憩の終わりをしらせるアナウンスが流れてくる。
出番はまだだけれど楽屋のテレビで他の学校の演奏を観るから、と真菰ちゃんは戻っていった。
わたしたちはもうすこしここで休むことにして、紙コップで出てくる自販機で、それぞれミルクティーとココアを買った。
ホールからこぼれる音がかすかに聴こえる。
有名なポップスだった。


「わたしたち、どういう関係に見えるでしょうか」
「さあな」
「義勇先生のお誕生日はいつですか」
「二月八日」
「わたしは今年で十八だから、二十四になる先生とは六つ違うんですね」

わたしたちは冷たい壁に背中を預けてもたれかかったまま、ぽつぽつと言葉を繋ぐ。
六つ違えば学び舎を共にすることもない。


「六つって、おおきいですねえ。六つ。六つかあ。わたしがもっとがんばってお勉強をして、もっとたくさんの本を読んでいろんなことを経験して、アルバイトを掛け持ちしたりしてお金をたくさん稼いで、そしたら、そうしたら、早く歳を取れたりしないかな」

「……なまえ」

「無理かな、無理ですよね。せつないなあ」


なるべく冗談めかして言ったつもりだったのに、口に出した言葉の響きは重々しく、ただの冗談に聞こえるようにと気をつければ気をつけるほど声が震えた。
涙は先生から見えない右側から、一筋だけ流れた。
わたしは、これ以上こぼれないように、低い天井の蛍光灯を見上げた。


言いながら、気づいてしまったことがある。
わたしは、近い未来に訪れる先生との別れに備えて、入念に自分のこころに暗示をかけようとしていたのだ。
わたしはこどもだから、しかたがない。
先生とは六つも違うのだから、わたしは先生の教え子なのだから、お別れしなくてはならないのは道理だと。
離れた年のせいにして、来る日のかなしみがなるべくやさしいものになるようにと。
とにかくたくさんの言い訳を並べて、わかっていたからだいじょうぶ、というふうに思い込むために。

わたしは、先生を思うとてもたいせつな気持ちが、わたしのこころを浅ましく言い訳がましいものにしてしまっていることが、たまらなくかなしかった。
先生への気持ちは、もっとやわらかくてうつくしいものであるべきなのに。
そうでなければ先生や錆兎くんたちとの絆を、いつか傷つけて壊してしまうような気がする。
先生とのきらめく日々も、思い出したくない記憶になり果ててしまう。


わたしの涙に気がついたのか、先生はそっと肩を抱いてくれた。
そのやさしい腕に誘われるように先生の肩口に頭を預けると、涙は次々とあふれてとまらなくなった。
肩を震わせるわけでもなく喉を鳴らすでもなくただしずかに流れるだけの涙は、わたしの頬や顎を伝って、先生のシャツやリノリウムの床にたくさん落ちた。