23:ミュゲ

昔から稀に、知恵熱を出す。
とは言っても、そんなこどもじみた理由で寝込んだのは錆兎に会ったとき以来で、おとなになってからは初めてである。

「すきなんだろ、なまえのこと」
昨晩ひとりでうちへやってきた錆兎が開口一番に言ったのは、そんな言葉だった。
すべてをわかっているとでも言いたげなその面持ちを見て、あえて言葉にはしなくてもよいと思った。
沈黙を肯定と受け取って、錆兎はぽつりぽつりと話しだした。

彼女をすきなこと、今生で叶わなくともいいと思っていること。
こころに正直になるべきだということ、つまらないことで諦めたり立ち止まったりしないでほしいということ。

時間は有限で、生きているということはとてもありがたいということ。
愛しあえる日々は一日でも多いほうがいいということ。

今を蛇足の人生だと思っていること。
そんな人生のなかでも、やはり彼女をあいしているということ。
愛しい彼女を、しあわせにしてやってほしいということ。

おれに彼女を託したいのは、彼女のしあわせがおれの隣にあるということを、神さまとか運命だとかそんなようなものが、もうとっくに決めてしまっているからだと、錆兎は確かにそう言った。



短く震えた携帯電話のディスプレイには、彼女の名前と、その下に「行ってもいいですか」の文字があった。
「鍵を空けておく」とだけ綴って、熱を持った指先で玄関のチェーンを外し、サムターンを回しておく。
今会うのは得策ではない気もしたし、今だからこそ会うべきだとも思った。
錆兎の言ったように、時間は有限である。
どこからともなくあたりまえに湧いてくるものではない。
たいせつにしなければならない。

鈍痛でうまく働かない頭はいやに重たくて、冷やすと幾分か楽になる。
うまく寝返りをうちながらほどよく冷めたころのやわらかな布団に身体を預けているうちに、扉の開く音がやけに遠くに聞こえた。

「義勇さん」

彼女は不安げにぱたぱたと駆け寄ってくると、ベッドの脇に座り込み、おれの額にそうっと手のひらをあてる。

「だいじょうぶですか」
「知恵熱だからうつらない」
「よくなるのなら、うつってもかまわないのに。それにしても、知恵熱だなんてこどもみたい」
「悪かったな」
「かわいいですよ」

彼女はおかしそうにちいさく笑うと、手鏡ほどのおおきさの保冷剤をハンカチに包み、一度おれの頬にあてた。

「冷たすぎないですか」
「気持ちいい」
「よかった」

ハンカチからは、彼女の濃いかおりがした。
香水や石鹸とはまた違う、彼女のまんなかから立ちのぼる、花の蜜のようでミルクのような、しっとりとあまいかおり。


熱を出すたびに申し訳ない気持ちになっていた幼いときのことを思い出す。
姉は非常に世話焼きで、おれが寝込むとつきっきりになり、食事を作るとき以外はひと時も離れようとはしなかった。
親代わりにいつもせかせかと動き回っている姉の貴重な時間を奪ってしまうことがただただ申し訳なくて、たしかに感じていたはずのかすかなうれしさも、記憶には薄かった。

「なにか食べたいものはありますか」
「……鮭大根」
「ほんとうにすきなんですね。蔦子さんがこの前教えてくれました」
「いい彼女だと褒めてた」

彼女はなにか言いたげに眉を寄せていたが、病人に小言を浴びせまいとしたのか、言葉を飲み込んだようだった。


時間は有限だ。今こうしているあいだにも、刻々と流れてゆく。
彼女は、おれのことをどう思っているのだろうか。
憎からず思っていることは明白だけれど、彼女のその好意が過去のおれに向けられたものではないという確証はない。
そして、学校という狭いコミュニティのなかで教師に好感を抱くということは、女子高生には実にありがちなことで、大抵の場合、そんなまやかしのような感情は、卒業するときにピークを迎え、桜が散るころにはすっかりと消え失せてしまうのだ。

つまらないことで立ち止まるなと言った錆兎は、ぐだぐだと御託を並べて足踏みをするおれの、こんな情けない考えをも見抜いていたのだろうか。

「わたし、お買い物に行ってきます」
「まだいい」

おれの視線をかわして、逃げるように立ち上がる彼女の翻るスカートの裾を掴んだのは、決して衝動ではなかった。わずかでも、前に進みたいと思ったのだ。
驚いた彼女の髪の毛がはらりと揺れて、あまいかおりはまるで蝶の鱗粉のようにあたりに広がった。

「……プリンを買ってきたんです」
「今はいらない」
「保冷剤を変えないと」
「まだいい」

彼女は、手を振りほどこうとはしないくせに、目を合わせるのを頑なに拒んだ。
くちびるをきゅっと引き結んで、なにもない床の上に視線を滑らせると、喘ぐように苦しげに言葉を絞り出す。


「……これ以上、バランスが崩れてしまうといけないから」
「バランス?」
「これ以上近づくとだめなんです。先生はやさしい。わたしは先生のその繊細でスマートなやさしさがすき。それなのに、これ以上近づけば、わたしは愚かな期待で、先生のやさしさを裏切ることになってしまう」
「おれは」
「お願い。先生のかわいい教え子でいさせて」


でたらめに触れて、あまえて、バランスなど、とうに崩れていると思った。
彼女があまりにもきれいに笑うから、そのやわらかさでくるまれて、いびつな関係も平らに見えていただけなのだ。


「鍵はキッチンの上にある。返さなくていい」


そう言い捨ててまなざしから逃げたのは、今度はおれのほうだった。
彼女はシャツの胸元を強く握りしめ、耳まで赤く染めてしばらく俯いていたけれど、やがてかすれ声でちいさく「はい」とだけ返事をして、急くように寝室を後にした。
めずらしく生まれた若干のあまえたい気持ちは、たちどころにやり場を失ってしまう。
どうにもままならないものだと、息をついた。


おれたちはこれまで、満ち引く潮にこころを任せてただ漂うだけで、打ちあげられたものが、がらくたか真珠かだなんて確かめようともしなかったのだ。
それはきっと、単に不安だっただけで、ただ、期待をすることや、思うようなかたちでないかもしれないことを、わけもなく恐れていただけなのだと思う。
ゆらゆらとぬるい波にのり、引くも満ちるも月の引力の赴くままだと、そう思うほうが傷つかなくて済むのだと、逃げていただけなのだ。

変わりたいと思う。
うまくできるかはわからないけれど。変わりたいと、強く。