24:ラストノートまでそばにいて

「すこし横になるといい」

義勇先生は、横抱きにしていたわたしをまるで壊れものでも扱うかのように、しずかにベッドへ下ろした。
祝日の保健室は、その独特の薬品臭と薄暗さのせいか、ひんやりと冷たい印象だった。
洗濯糊のききすぎた硬いシーツからは、マキロンと正露丸のかおりがした。
閉じたままのカーテンは、わたしたちふたりだけを世界から隔離しているようだった。

女子とは面倒な生き物で、月の廻りで身体がひどく重たくなったりじくじくと傷むことがある。

ただの重たい立ちくらみだったのだったけれど、ふらついて落とした防具が大げさな音を立ててしまったことに驚いて、そのまま後ろに倒れ込んでしまったのだ。
いちばん早く駆けつけてくれたのは先生で、わたしにひとつふたつと言葉をかけながら、腰が抜けたみたいに自由のきかなくなってしまった身体を抱き上げてくれた。


「先生、もうすこしここにいてくれますか」

身じろぎをすると、スカートのポケットのなかで先生のおうちの鍵が無機質な音を立てた。
鍵をもらった日以来、ふたりきりになるのははじめてだった。
先生は短く頷くと、ベッドサイドの低い椅子に腰を下ろした。
今日の先生からは、かすかにスモーキーなムスクのかおりがした。

やさしくもあたたかくもなければ無駄な情報の一切もない保健室の機械的な雰囲気は、ここ数日休まらないままでいたこころにちょうどいい気がする。


蔦子さんに会った日から、わたしのこころはずっと迷子のようだ。
否、気がつかないふりをしていただけで、ずっと迷子だったのだ。
どこに辿りつきたいのかもわからなくなって、ただあたたかくてやわらかいところを、なんとなくふらりふらりと転々としていたのである。
わたしはみんなといる時間がすきだったし、あたたかな輪のなかでみんなが笑っていることがしあわせだった。
先生に対する気持ちは、叶えたいだけの恋とは違ったはずなのに、近づけば近づくほど離れがたくなり、わたしを貪欲にさせた。
むくむくとおおきくなる気持ちは、みんなを裏切っている罪悪感と、先生をだましているような後ろめたさで、激しくわたしを責め立てた。
それでも先生をすきなことをやめられないのは、ある種のやまいだと思った。
先生とのあたたかな出来事のあいまあいまに、うまく笑えないときや、涙の出るとき、無性にせつなくなるとき、自分がゆるせなくて苦しくなるときが何度も訪れた。
先生への好意を錆兎くんに切り込まれたのは、その矢先のことだった。


先生は、膝に肘をついて指を組み、白いカーテンを見つめていた。
涼しい瞳に深い夜色の長いまつげをひっかけたみたいな先生の目元は、いつもすこし物憂げに見える。

「……先生、近ごろは困らせてばかりでごめんなさい。きちんと謝りたくて」
「つらい思いをさせていたのはおれか」
「いいえ、わたし自身です。わたしがずっと、ずるく逃げていただけ」

先生がこぼしてくれた愛情を、正しく拾いなおさなければ、と思った。
自分のこころに正直になって、誰の気持ちも見えないふりをしないで、向き合わなければ。
例え傷つくことになったとしても、傷つけてしまうことになったとしても、これまでのようにただ逃げ回りあまい蜜だけを吸おうとしているような不誠実さよりは、きっとずっとましなはずだ。
先生がくれたたくさんのぬくもりを、そのあたたかさを、真正面から抱きとめたい。抱きとめてわたしたちのかたちがどうなるのかを、きちんと見届けたい。


「先生」
「名前」
「……義勇さん」
「うん」
「義勇さん、お顔を近くで見せて」


義勇さんは組んでいた指をほどいて、ベッドに近いほうの腕をシーツの上についた。
硬いパイプベッドが鈍い音を立てて軋む。
猫のように鼻先を寄せる義勇さんの頬に触れ、その口角に、わたしはそっとくちびるを寄せた。
ただほんのすこしかすめただけの、キスとも呼べないようなその行為は、あらゆることときちんと向き合いたいという、わたしの一世一代の決意表明だった。

義勇さんはすこしのあいだ目を丸くしていたけれど、やがて慈しむようにちいさく笑うと、わたしのくちびるを親指でやさしくなぞった。
鍵をありがとうと言いたかった。運んでくれたことへのお礼も、今日の義勇さんのスモーキーなムスクのかおりがすきだということも。
話したいことがたくさんあるのに胸がいっぱいで、なにひとつ言葉にはできなかった。

義勇さんは一度わたしの頭をくしゃりと撫でると、みんなのいる体育館へと戻っていった。
わたしは硬いパイプベッドの上で、ほんのわずかにかすめただけの、淡雪のようにやわらかなくちびるを思い出していた。