22:燕子花をきみに

「義勇がすきか」

まだ明るい教室の開け放した窓から、砂ぼこりを乗せた風が吹きこんだ。
カーテンレールが無機質な音を立てる。
なまえの手のひらから帳簿が落ちた。机の上からはシャープペンシルが落下して、くすんだビニルのようなリノリウムの床をぱちぱちいいながら転げた。


土曜日の部練は早く終わる。皆が帰ったあと、部室である体育館横の空き教室には、おれとなまえのふたりだけが残った。
なまえは黒板近くの席に腰をかけ、先ほどまで集めた部費を数えていた。その口角はきゅ、と上がっていた。

機嫌が悪いなまえを、おれはあまり見たことがなかった。
眉尻を下げても多少語勢を強くしてみても、大抵の場合、彼女はゆるりと口角をあげるのだ。
しっかりしなくては、いいこでいなくては、彼女のそんな気持ちが見て取れたとき、おれは彼女の肩を抱いてやりたくてしかたがなくなる。
おれがついているから、どうか肩の力を抜いていてほしいと、そう思う。
しかしそううまくはいかないもので、おれが気張れば気張るほど、彼女は更に背伸びをしてしまうのである。
そして彼女がこんなにも頑なにおとなぶろうとする理由は、当時見ず知らずだったおれの生死をさまよう様を、おれが無抵抗で死に誘われている様を、間近で見てしまったからに他ならなかった。
おれたちはとことんあわない。
あわないのだ。皮肉だ。


「……ごめんなさい」
「どうして謝る」
「仲のいいみんなの和を乱すような感情を持ち込んで」
「咎めたいわけじゃない。ただ、つらそうに見えたから」


なまえははじめ、どうしたの、とでも言おうとしたのだと思う。しかしおれの目を見て、ごまかしがきく状況ではないと腹を括ったのだ。
笑顔でないなまえを見るのは久しぶりだった。
義勇なら、こういうときも彼女を自由に笑顔にできるのに、と思った。


「昔、このあたりには鬼がいたんだって。鬼はね、元々は人間なの。魂を買い上げられた、よわいこころの持ち主。鬼になってしまうと自分を失って、親しいひとのことも食べてしまうの」

「…おとぎ話だ」

「うん、よくできた、昔のひとからの戒言だね。楽なほうへ逃げようとするのも自分は不幸だと嘆くのも簡単だけれど、そういうふうに立ち回ることの代償はおおきくて、いつか自分のこともたいせつなひとのことも不幸にしてしまう」


おれたちが昔生きた軌跡は、今もこの町に、都市伝説やおとぎ話として生きている。
あの苦しかった日々が遠い過去になって今の時代でただの寝物語のようになってしまったことを、よかったとも思うし、正直、すこしせつないとも思う。

「わたしは、みんなにとっての鬼になりたくなかった。自分勝手な感情で、あとから入ってきたわたしがみんなの絆を壊すことはあってはならないって。でも、このごろわからないの。先生とお別れすることばかり考えてしまってかなしくて、上手に笑えなくなるときや涙がでることがあるの」

「義勇は、」

義勇は、お前のことがきっとすきだよ。前世から。
一層のこと、そう告げてしまおうとも思った。
なまえがこれ以上こころを消耗して、卒業というタイムリミットを勝手に決めて諦めてしまわないように。
おれがなまえを諦めることを、正当化して、後悔にしないように。しかし、だ。

「義勇とは、卒業してからも会える。なにがあってもおれたちはいっしょだ。それは絶対、おれが保証する」

結局それ以上、おれになにが言えただろう。
過去を暴くことも、義勇の気持ちを暴露することも、どさくさにまぎれてすきだと言う度胸も、おれにはなかった。

「ありがとう」

おれを見つめる上目遣いの瞳が赤かった。
くちびるを震わせ泣きだすのを我慢しながら、なまえは無理矢理に口角を持ち上げる。
笑わなくたっていいと言いたかったのにそれが叶わなかったのは、おれがその後のなまえを癒す術を持ち合わせてはいなかったからだ。


ごめん、けれど、走れ、と思った。
背中を蹴ったことを許してほしいと。
なまえ。
おれたちがいなくならないことを保険にして、走って愛を掴め。しあわせになれ。
おれたちの絆は切っても切れない。お前の知らないところで、深く絡んで繋がっている。
絶対に消えない。消えようのない過去に保障されている。
決して諦めないで突っ走るのだ。お前が心底笑える場所にたどり着くまで。
それは義勇のためであり、なまえのためであり、おれのためでもある。
今はどうしようもなく、つらくもどかしくとも。