25:ダイヤモンドダスト

真っ白く高い曇り空からは、今にも雪の降りそうな気配がしていた。
今日という日に降る最初のひとひらが見られたらとても縁起がいい気がして、わたしは何度も窓の外を見つめてみたけれど、学校にいるあいだ、雪がその姿を見せることはなかった。

クリスマス・イヴでも、わたしの生活はいつもとまるで変わりはない。
いつものように朝支度を済ませ、いつものように学校へ行き、刻一刻と過ぎていくたいせつな時間を惜しみながら、過去になってしまう今日に後ろ髪をひかれながら、そうしているうちにただしずかに過ぎていく。

明日からは冬休みがはじまる。
長めのホームルームが終わって、生徒たちは急くように次々と校舎から出ていった。
わたしはその様子をひともまばらな教室の窓からしばらく眺めたあと、ちいさく息をついてスクールかばんを持ち上げる。
クリスマスが来なくてもいいから、冬休みも来なければいいと思った。


下駄箱から取り出したローファーが半足、鈍い音を立ててすのこの上に落ちた。
同時に聞こえたのは愛しい声だった。
「なまえ」と、だいすきな声が名前をなぞるそのあまい感覚に、じんとしびれて動けなくなってしまう。
義勇さんは転がったローファーを拾い上げて、わたしの足元にそっと置きなおしてくれた。
さわりと揺れた横髪から覗いて見える、長いまつげに、すっと通った高い鼻に、今日もわたしは飽きもせずどきりとしてしまう。

「予定は」
「……ないんです。今日はとても暇で、その、明日も」
「飯でも食うか」

義勇さんは、わたしが勢いよく頷いたのを確認すると、踵を返して職員玄関のほうへと歩いて行った。
彼がここへ来た理由を考えてみると、ふくらむ胸のなかにひとかけの期待が生まれて、わたしの心臓をさらに強く鳴らした。
空はあいかわらず真っ白だったけれど、雪は気配を漂わせるのみで、雲の果てから降りてきてはくれなかった。


「制服だと都合がわるいな」
「先生もジャージですね」
「一旦着替えるか」
「着替えて、ほかにもいろいろと用意ができたらうれしいです」
「そうだな。一旦家まで送って、十八時ごろに迎えに行く」



きっかり十八時に迎えに来てくれた義勇さんの車に乗って向かったのは、重厚感の溢れるすてきなレストランだった。
高い天井はアーチ状になっていて、フロア内に立ついくつもの太い柱に支えられている。
おおきな固定窓にぐるりと囲まれた広い空間の窓際の席につき、わたしはこの完成された世界のうつくしさと、目の前に義勇さんがいるという事実のふたつとに緊張し通しであった。

ストライプ柄がおしゃれな深いネイビーのスーツは細身で、義勇さんの引き締まった身体のラインをよりうつくしく見せる。
スーツを着てくると聞いたから、なるべく華やかなドレスワンピースで来たものの、談笑しながらワインを飲みかわすおとなの恋人たちに比べるとやはりわたしはまだまだ幼く見えて、義勇さんやこの場所との釣り合いのとれなさに、申し訳なくなってきてしまう。
義勇さんは肩を落とすわたしを気にしてか同じようにあたりを見渡すと、親指を顎にあて、かすかに目を細めて見せた。

「お前がいちばんきれいだ」

生演奏のピアノの旋律が控えめに聞こえるだけのしずかな店内で、その言葉がわたしだけに届いたかどうかは定かではなかった。
言うやいなやそのまま席を立ってお手洗いへと行ってしまう義勇さんの背中を見つめたまま、わたしは魂を引き抜かれてしまったかのようにぼうっとくちびるを開いていた。
置き去られたあまい響きに喉の奥が疼いた。グラスから伝った水滴がわたしの指を濡らした。



食事のあとのことは、なにも決めていなかった。
外はつんと肌が痛くなるほどに冷え込んでいたから、そのまますぐに車に乗り込んで、イルミネーションでかがやく街を眺めた。
イルミネーションは、停まった車から見ると星のようにまたたいて、動いているときにはダイヤモンドダストのように見えた。

「きれい」

そう溢せば、先ほどの言葉が脳裏によみがえって、わたしの胸を内側から強く叩いた。
そのもどかしさに背中を押されるようにして、わたしはしずかに呟く。

「でも、義勇さんのほうがきれい」

一度目があったけれど、義勇さんはなにも言わなかった。
肩をすくめた義勇さんの横顔は、スタンドカラーのコートの襟に隠れてうまく見えなかった。
カーラジオからは、有名なクリスマスソングが絶えず聴こえていた。
キャッチーなサビのメロディラインを鼻歌でなぞると、義勇さんが音もなくちいさく笑うのがわかった。
車は義勇さんのマンションのほうへ向かっているようだった。



義勇さんのおうちはあいかわらず簡素なモデルルームのようにすっきりと片付けていたけれど、テレビボードの脇には、わたしの買ったモノクロのビジューのついた写真立てが飾ってあった。
四つの枠のなかには、遊園地に行ったときの写真が二枚と、剣道部の集合写真、義勇さんのおうちでセルフタイマーで撮った写真が収まっている。
生活感の欠如した空間のなかで、写真立ての置いてあるこの一角だけがあざやかだった。

「わあ、雪!」
「降ったか」
「ホワイトクリスマスですね」

義勇さんはふたりぶんのマグカップをローテーブルに置くと、窓際に佇んで雪を見つめるわたしの腰に片手をゆるくまわした。肩に顎が乗せられる。心地よいあたたかな重みに、ついほほえみがこぼれた。
夜の掃き出し窓のガラスに、寄り添って空を見上げるわたしたちの姿がくっきりと映しだされる。
わたしは、無口のかわりにいつもわたしと同じものを見つめようとしてくれる義勇さんのこころがだいすきだ。

「クリスマスの雪は願いを叶えてくれるんです」
「知らなかった。ありがたいな」
「雪にはいろんなジンクスがありますよ。まっさらな雪を踏みながらお祈りをすると叶うとか、ほかにもたくさん」

川辺に立って灯篭を流した夏の日、願いごとがすぐには思いつかないと言った義勇さんは、今ならなにを願うのだろう。
いつもこころをどこかにやってしまったというように所在なさげにしていた義勇さんは、あのころと比べると、今を感じながらしっかりと生きてくれている気がする。
わたしはというと、みんながいっしょにいられますように、と綴ったあのときの気持ちは変わらないけれど、恥を忍んでありていに言うならば、願いたいことがもうふたつ増えていた。


「誰かの願いが叶うとき、きっとその裏では誰かの願いが潰えているはずで、みんなの願いが一斉に叶うことなんかないんです。だから、ホワイトクリスマスのジンクスなんて、ほんとうは嘘っぱちに決まってる。でも、それでも、願わずにはいられないのはなぜでしょう」

「改めて認識することに意味があるのかもしれない。自分にとって、それこそが叶えたい願いであるのだと」


その通りだと思った。義勇さんのその言葉は、わたしのこころの内を見透かしているようで、すこしどきりとした。
腰元の手のひらに触れると、義勇さんは指先を絡めて握りなおしてくれた。
スーツから着替えた白いセーターのたっぷりとした襟が、わたしの首筋をくすぐる。


「おれは、お前の願いが叶うように祈るよ」

「それは、わたしの願いと義勇さんの願いが同時には叶わないと思うから?」


あまえるように顔を傾けられて、頬どうしが触れる。
ガラスに映るわたしたちはまるで恋人のように見えた。


「いや、同じだと思うから」


ちらちらと降る細雪は、今、どれだけたくさんの願いを乗せて舞っているのだろう。
義勇さんは、ポケットから取り出したちいさな化粧箱でわたしの手の甲をとんとんと叩いた。
そしてそれをわたしの手のひらに握らせると、すっと離れてソファのほうへ歩いて行ってしまう。

「……義勇さん、これ」
「ココアが冷める」
「あ、あの」
「似合うと思った」

ありがとうございます、と告げた声が情けなく上擦って震えていた。
義勇さんは、ソファに座ってこちらを一瞥すると、頷くでもなくふいと視線をそらしてしまう。
うれしくてもせつなくなるのは不思議だ。
義勇さんのこころはいつも、わたしの胸をきゅんとせつなく疼かせて、喉の奥をきつく締めて、じんと熱くする。


みんながいっしょにいられますように。
義勇さんがしあわせになりますように。
そして、叶うことならば、その隣にわたしがいられますように。
こんなわたしが、義勇さんをあたためることができたなら、それはなんてすてきなことだろう。

わたしの願いが叶うとき、せつない思いをする誰かがいるかもしれない。
それでも義勇さんの手を取りたいと思うことは、愚かだろうか。浅ましいだろうか。
人生は選択の連続で、ひとつの間違いも犯さないことや、誰のことも傷つけないままでいることは、きっと不可能だ。
きれいごとだけでは歩めない長い道のりのなかで、わたしはいちばんに義勇さんを思いたい。

頬にあてられた手は、ぬるいココアよりも熱かった。
帰りたくないと呟いた声は、マグカップのなかにびりりと響いて、あまい水面をかすかに揺らした。